Wednesday, June 21

ムクゲの花


この川の川下に住んでいたころの僕には木槿も眼中になく

15年ほど前、僕は一つのことに囚われて生きていた。今から思えば愚かな時間だったが、人生にそういうひと時があってもいいと思う。

今、川沿いの道にムクゲの花を見つけた。鶴見川の夏。

Sunday, June 18

テイカカズラの花


花びらのそばに蕾も枯花もテイカカズラは咲き急ぐ花

用賀で見かけた花。垣根にたくさん咲いていたが、気忙しい感じの花だなと思った。

梅雨の中休みの午後。

Monday, June 12

ホタルブクロ花


虫ならばホタルブクロの花の中に宿って余生を過ごしてみたい


降りみ降らずみの雨。久しぶりに用賀の庭園を歩いた。白いホタルブクロの花たちが雨に濡れそぼっている。

花の中で雨宿りしている虫もいるのかなあと思いながら…。

Tuesday, May 16

ドクダミの花


通る人それぞれ思念の霧の中ドクダミの花見る人もなく

大久保の街を歩く。喧騒の大通りから脇道に入り奥に行くと落ち着いた住宅地となる。

かつて岡本綺堂が住んでいたという町並み。往時を偲ぶものはなにも見つからないが、日陰に咲くドクダミの花は彼も目にしていたであろう。

Sunday, May 14

半七と江戸07(ズウフラ怪談)駒込富士前町


「ズウフラ怪談」

舞台は駒込富士前町の裏手の富士裏あたり。一帯は田畑の間に農家が散在するというさびしい場所で、表通りも寺が並び、町家は門前町ばかりと怪談向けの土地。

そこに真夜中になると「おうい、おうい」と何処ともなく怪しい声が響き渡るという珍事が起こるところから物語は始まる。

十字カーソルの右上が富士塚のある真光寺で、その裏を富士裏と呼んでいた。真光寺は移転しており、現在は富士神社となっている。

明治初期の地図でも表通り以外は田畑ばかりの地であることがわかる

御鷹仕込場というのが鷹匠屋敷のことで、裏に大泉院の名前が見えるが、その奥に神明宮がある。現在は駒込天祖神社。


通りは本郷通り(日光御成道)で、南に下ると本郷弥生あたりで中山道と分かれる追分がある。

地形的には神田駿河台を先端とする大きな舌状台地の上にあって、本郷通りはその台地を縦に横切っている。千川上水の埋樋が通っていた。

十字カーソルの道が本郷通りだが、このあたりは江戸期には鰻縄手と呼ばれていた。名の由来は、寺が鰻の寝床のように並んでいたからという説がある。

左側の中山道が北上して、五叉路状になっている左手に白山権現があった。現在は白山神社。

斜めに切り込んでくる道は、旧白山通りで、台地に上る道だった。下図の切絵図には「白山坂」とあり、現在は都営三田線の白山駅がある。

さて、小説のほうだが、鰻縄手に住む岩下左内という道場主がその謎の声の主を暴きだそうと門弟2名を引き連れて真夜中の富士裏を探索することになる。

神明宮あたりを歩き回っているときに、「岩下左内やぁい」という謎の声が聞こえてきたので佐内は狐の仕業と思って刀を抜いてその声に向かっていく。

先生を見失った門弟たちは、やがて他の門弟たちと暗闇を探し回って左内の死骸を発見する。

門弟の1人、伊太郎は岡崎屋という酒屋の跡取り息子で、店は白山権現前の白山前町にある。

半七たちはこの事件の捜査のために鰻縄手を行ったり来たりするのだが、道が平坦なだけに地形的には面白みに欠ける。

ネタバレだが、結局悪いのは付き添いの門弟ふたりで、伊太郎は左内の妻とできており、もう一人の旗本の次男坊喜平次は道場主の後釜狙いで主殺しを犯したことを半七は明らかにする。

話は、救いのない結末で終わっている。

ちなみに、ズーフラとはオランダから持ち込まれた一種の拡声器のこと。


🙇本ブログの地図は、地形図はアプリの「東京の古い地図2020」、切絵図は同じくアプリ「今昔大江戸めぐり」を利用しております。


Sunday, April 30

半七と江戸06(朝顔屋敷)裏四番町


安政3年(1856)の11月。裏四番町の旗本の一人息子杉野大二郎たちは、お茶の水の聖堂で行われる素読吟味に参加するために早朝まだ暗い時分に聖堂に向かっていた。

大二郎には、中小姓と中間がお供をしていたのだが、水道橋を越えたあたりで大二郎が突如として「神隠し」にあって消えてしまう。

杉野家の用人に頼み込まれた同心からの指令で、半七はその大二郎の捜索を内密に行うことになるというストーリー。

裏四番町は武家地で、現在の千代田区九段北三、四丁目で靖国神社があるあたり。

「今昔大江戸めぐり」には、「裏四番町通」の名が見えるが、その南側が裏四番町となる。

富士見坂は、現在は外濠の新見附橋へと続く。靖国神社の前の道が靖国通り(九段坂)で、左手下に市ケ谷駅がある。

失踪していた大二郎は、最後には発見されるのだが、子を思う母親の「心の闇」が作り出した狂言だということが分かる。

中小姓と中間が母親の手伝いをしていたのだが、人の不安につけ込む悪人の種はいつの時代も尽きないという定番の結末となっている。

ところで、裏四番町から水道橋まで大二郎たちはどのようなルートで歩いたのだろうか。夜道のことだから近道ではなく、安全な道を歩いていったと推測できる。

裏四番町→九段坂下る→俎板橋を左折→堀留沿いを北上→御台所町に突き当たって右折→稲荷小路の先で左折して水道橋へ出る

こんなルートではなかっただろうか。いつか実踏してみたい。

下の「今昔大江戸めぐり」を見ると、外濠沿いを歩いて水道橋の手前の小石川橋を渡るという選択肢もありそうだが、堀沿いの土手から襲われる危険性を考えると、やはりこのコースとなるのではないか。

図中央の外濠の右端の橋が水道橋。図左側の池がいくつか見える区画が裏四番町。図下の島のようなところが北の丸で、橋のようになっているのが田安御門、その前の道が九段坂となる。


🙇本ブログの地図は特に断りのないものは、アプリ「東京の古い地図2020」を利用しております。


Wednesday, April 26

半七と江戸05(大阪屋花鳥)日本橋北新堀町


天保12年(1831)の3月、浅草観音の居開帳で大混雑している浅草寺の境内から事件が始まる。

そこに来ていた日本橋北新堀の鍋久という鉄物屋の母子連れが巾着切りに遭うところをお節という娘に救われる。

それが縁でお節は母親に見込まれて日本橋新堀町の鍋久に嫁に入る。

日本橋川下流を「新堀川」と称し、その北側に沿った町を新堀町と言った。現在は日本橋箱崎町となっている。

河口には豊海橋という橋がかかっていて、河口左岸に船番所があった。「今昔大江戸めぐり」で見ると「御船手番所」とある。


なお、高尾稲荷は高尾太夫の死後(1659)、その霊を鎮めるため当地に祀られたもの。

川沿いに大川に出るとそのまま永代橋に続く。現在の永代橋は明治30年にかけ替えられ、やや下流に移っている。

永代橋と同様、豊海橋の位置も変わっている。「御宿かわせみ」の舞台になったのがこのあたり。

鍋久に嫁に入ったお節はしばらくして乱心して夫を殺し近くの新堀川に身投げするという大事件が起こる。

事件の後ろで糸を引いていたのが大阪屋花鳥という吉原の女郎崩れで、島抜けの極悪人であった。

お節もその父親の小左衛門もぐるであったのだが、花鳥が捕まった後に父娘は姿を消す。

逐電していた小左衛門は北川村にある森厳寺の淡島明神で偶然発見される。森厳寺は現在の下北沢駅の近くにあり、前には森厳寺川という川が流れていたが、いまは暗渠になっている。


🙇本ブログの地図は特に断りのないものは、アプリ「東京の古い地図2020」を利用しております。