子は親を選べず未完の親のもと子どもは未完の子となる連鎖
『くるまの娘』(宇佐見りん)を読んで。
正直、読んでいて辛くて途中で読むのをやめようと思った作品。
主人公のかんこは親から肉体的・精神的に暴力をふるわれている高校生。学校には保健室登校している。
兄と弟はそんな親に見切りをつけてすでに家を出ているが、かんこはかろうじて家にとどまっている。
かんこに暴力をふるう父親は、自分が受けた虐待体験を子どもたちに擬態語(ドカーン、ボコーン、エーンなど)でしか語れない。
しかし小説の最後で彼は自分の傷をかんこに語りながら「なんで生きてきちゃったんだろうな」とつぶやく。
運転席にいた父親が激情してアクセルを踏み込めば自分たちも近くにいる歩行者も危険だということをかんこは感じる。
しかし父親は一線を越えることはなかった。
「自己責任論」が覆い尽くす日本の社会。<生きるか・死ぬか>の最後の一線で踏みとどまっている人がたくさんいるにちがいない。
最近、ニュースになる「最強の人」たちもその一線で躊躇ったときに彼(女)らの言葉を聞いてくれる人(家族や友人など)がいればその人生も変わったかもしれない。
アベマテレビで、そういう最後の一線で迷う人たちの電話相談をしている女性がこんな話をしていた。
「女性の相談者は、自分のことを語っているうちに落ち着いてくる人が多いが、男性は<原因>が見つからないと怒りを収められない(人が多い)」と。
かんこの父親は、母親の死後に彼女がきょうだいの中で自分のアルバムだけ作っていなかったことを知ってショックを受ける。
彼は、母親のえこひいきにあらためて絶望するわけだが、それは誰からもいじめられたことがないと豪語する彼が誰にも見せたくなかった心の傷だったのだろう。
それを娘にきちんと言葉で語れたところに彼自身の歪んだ人生の「原因」を見つけたかもしれない。
そしてそれを引き出したのが、かんこの、<遠からず・近からず>の「くるま暮らし」だったのではないか。
「くるま」が家族の絆であり柵であったとするならば、かんこは最後までそこにとどまって、それをひとり守ろうとしたという読み方もできる。
こういった共依存関係はできるだけ早く清算して、それぞれが自分の行動に責任を持って自立した大人にならなくてはいけない、というのが世間の正解かもしれないが…