Sunday, October 30

落葉の色


葉の一生アントシアニン仕方ないクロロフィルの輪最期の思い


コブシの落葉であろうか。いろんな色素を発色させている。

なんだか葉の気分を表しているような。

Saturday, October 29

ソバの花


ご近所に昨年見つけたソバの花今年も地味に咲いててよろし


昨年見つけたソバの花。家の前に雑多に置かれている園芸植物に混じって咲いていた。

地味だがよく見ると清楚な花。アリが1匹這い回っていたが…。

Wednesday, October 26

コムラサキの実


コムラサキ玉の実もまた朽ちていく小春日和の終わる頃には


コムラサキ、あるいはシロミムラサキなどと呼ぶらしい。

先日小春日のときに見たときには実たちは明るく輝いて見えたが、季節が進む今日は朽ちていく実も目立つ。


Tuesday, October 25

ソヨゴの実


葉は欠けてソヨゴの実もまた朽ちていく鳥さんどこかへ連れてってよと


ソヨゴの実。葉は端から朽ち始めている。

鳥が啄んでくれるのをひたすら待っているのだろうか。

Friday, October 21

クヌギの堅果


どんぐりの散らばる櫟の樹下に来て堅果緑の頃思い出す


よく訪れる緑地公園。クヌギの樹の下にはたくさんのどんぐりが落ちていた。

たしか暑い頃に見た堅果は初々しい緑色だったはず。

目を離すとあっという間に季節は進む。

Wednesday, October 19

『心はこうして創られる』


唯脳が即興的に創り出す物語それが心の正体?


『心はこうして創られる』(ニック・チェイター)を読んで。

「マインド・イズ・フラット」。つまり、私たちの心は深みのある実体ではなく、心は脳による即興的な創作だという。

脳は私たちを欺いて、これが現実だという実感を与え続けている。

私たちは、この脳の働きのお陰で一貫したリアリティの中で生きることができている。


ずいぶん前のことだが、手の感覚を失ったことがあった。

手の触覚がないので、たとえばカバンの中のものを手だけで探せない状態だった。

困ったのはコップやグラスなどを手でつかめないこと。

物理的に握りしめることはできるが、紙コップなら握り潰してしまうし、グラスなら滑って手から落ちてしまう。

仕方なくコップは両手で下からつつみこむようにして持っていた。

ホットコーヒーなどは取っ手を持つと滑ってしまうし、下から持つと熱いので持つのに苦労した。

しばらくして変な感覚が生まれてきた。

それは持っているコップがヌルヌルしているという感覚だ。

もちろんコップは濡れていないし、ヌルヌルもしてもいない。

いくら手の触覚がないだけと思っても感覚的には物のほうがヌルヌルしているのだ。

コップだけでなく手に触れるすべてのものがヌルヌルしている。

つまり、私の脳は手に触覚がないのではなく、周りの世界がヌルヌルしているという幻覚を私に与えたのだ。

ヌルヌルしているから手で持とうとすると滑ってしまうという帳尻合わせだろう。

私がいくらそのヌルヌルは間違っていると理性的に考えても、そのヌルヌル感を正すことはできなかった。

幸い手の感覚は戻ってきて、そのヌルヌルは消えてしまった。

こんな奇妙な体験があるので、この著者の主張は、間違っていないように感じてしまう。


Monday, October 17

草木屋敷


草木に呑み込まれているこの家もいつかは消えて更地に変わる


暗渠沿いの「草木屋敷」。覆い尽くしているのはムクゲ。

柵からはみ出ているのはオシロイバナ。

大いなる眠り。

Sunday, October 16

イヌマキの実


もう誰も手入れする人いないのか空家のイヌマキ虚しく実る


空家らしい家の生垣。様々の樹木が茂り放題に茂っていた。

その中にイヌマキの木があったので探して見るときれいな実があった。

緑が種子で赤いのは偽果で、鳥が種子と一緒に食べるという。

ここの木々は、この空家に手が入るまでの命かもしれない。

Saturday, October 15

シュウメイギクの花


花びらに見えて花びらを欠く花秋明菊は萼片の花


一見花弁に見えるものは萼片で、シュウメイギクには花弁はない。

真ん中の黄色が雄しべ、真ん中が雌しべ。

その周りに見えない花びらがあるかのようだ。

Friday, October 14

ウバメガシの実


公園のトイレの横でキョロキョロと気になるものはウバメガシの実


いつも立ち寄る緑地公園。公衆トイレの横に気になるどんぐりの実を発見。

ウバメガシの堅果らしい。場所柄、急いで写真を撮って引き上げた。

不審者に思われなかったか…。

Thursday, October 13

モッコクの実


宮様も将軍様もご覧になったかもしれない木斛の実を


浜離宮の入口付近のモッコクの植え込み。赤い実がついていた。

かつて皇族や殿様たちがこの前を通ったこともあっただろう。

モッコクは庭木の王だという。

Monday, October 10

ケイトウの花

近づいて覗いてみるとにぎやかな声がしそうな鶏頭の花


鶏頭の花。トサカではないので鶏頭ではないが、一応その仲間らしい。

にぎやかな感じで、これは子規が好んだ鶏頭ではないだろう。

Sunday, October 9

サンショウの実


荒屋敷道端に木々あふれ出てなかには山椒の実なども交じる


暗渠道を散策していたら荒屋敷があった。昔からの家らしい。

何種類かの庭木に混じって山椒の木があった。よく見ると実が少し。

通り道なので誰か取っていく人がいるのだろうか?

Saturday, October 8

『おいしいごはんが食べられますように』


十三夜もらった団子をこっそりと暗がりに捨て踏み潰す奴

『おいしいごはんが食べられますように』(高瀬隼子)を読んで。

多くの読者がこの小説を読んでもやもや感が残ったのではないか。

そのもやもや感の正体は何なのだろうか。気になるところ。

芦川さんの作ったお菓子を表面的にはおいしいおいしいと褒めながら陰で握り潰し捨てている仮面野郎の二谷か?

ひたすら善人キャラを演じながらしっかりと仕事の手を抜いて上司の覚えめでたく(結果的には)最後には敵を追い出して職場に居残り続ける芦川さんか?

あるいはお互いに本当の姿を見せないままに仲のいい恋人として付き合ってやがて結婚もしそうな二谷と芦川さんの不可解な関係か?

読者をスッキリとさせない終わり方が芥川賞的なのかも。

それから文学とは関係ないが、ペイ・フォー・パフォーマンスという考え方が浸透してくると、芦川さんのような人も「働かないおじさん」と同じようにあぶり出されてくる日は近いのかもしれない。

同僚が、先輩だから、高齢だから、いい人だから、病気持ちだから、家族を支えなければならないから、等々で、仕方ないと思っていた偏った仕事分担だが「働かない」という点では同じ。

本当のもやもやはこっちの方かな?

Friday, October 7

『カモメの日の読書』


カモメ来よ本を開けば純白のページの海に一青沙鴎

『カモメの日の読書』(小津夜景)を読んで。

『いつかたこぶねになる日』と同じく漢詩エッセーとでも言うべき作品。こちらの方が先の出版。

各篇ごとに漢詩をめぐる作者の漢詩的日常が描かれている。フランスでのノマドのような暮らしぶりが小気味よい。

作者は『フラワーズ・カンフー』で田中裕明賞を受賞している俳人だが、その出発点に漢詩の世界が大いに関わっていたことは興味深い。

いずれも自由自在なタッチで書かれていて愉しいエッセーなのだが、「水のささやきを聞いた夜」と「言葉にならないさよなら」で交わされる頼山陽と愛人の江馬細香の漢詩「相聞歌」のように漢詩人たちの人生を垣間見せるものもある。

驚いたのは、作者が子どものときに本を声に出して読むと、母親がリコーダーでただちにそれを曲に変える遊びをしていたという話。

母から娘への芸術的「ギフテッド」。この人の文才はお母さんの魔法で生まれたのかなと思ってしまった。

Tuesday, October 4

オシロイバナの実


黒い種子集める子どもに誰かの声オシロイバナは有毒ですよ


オシロイバナが黒い種子をつけていた。

これを割ると中に白い胚乳の粉があり、それを白粉に見立てる遊びからこの名前がついたという。

その遊び方を紹介するHPに「オシロイバナは有毒だと聞くが顔に塗っても大丈夫なのか」という声がよせられていた。

害はないとのことだが、親たちは慎重になるね。

Monday, October 3

ニオイテンジクアオイの花


まあなんてこてこての顔恥ずかしくないのとそばで睨んでる花


たぶんニオイテンジクアオイの花。横から見るとさらに奇抜な形をしているが、虫から見ると魅力的なのかもしれない。

ちょっと擬人化してみたくなった。

Sunday, October 2

コットンボール


細々と咲いてた綿の花もやがて綿の実がつくふもふの玉


いつも行く緑地公園に咲いていた綿の花に綿の実がついていた。

もふもふとしていたので触ってみたくなったが、見るだけにとどめた。

芭蕉が読んだ句に。

名月の花かと見えて棉(わた)畠

というのがあるが、芭蕉が伊賀の月見の宴で詠んだ句らしい。

当時の中秋の名月は今の暦だと10月3日だというからまさに今頃の句。

月光を浴びて広々とした綿畑の実綿が花のように輝いていたのであろう。