Wednesday, June 21

ムクゲの花


この川の川下に住んでいたころの僕には木槿も眼中になく

15年ほど前、僕は一つのことに囚われて生きていた。今から思えば愚かな時間だったが、人生にそういうひと時があってもいいと思う。

今、川沿いの道にムクゲの花を見つけた。鶴見川の夏。

Sunday, June 18

テイカカズラの花


花びらのそばに蕾も枯花もテイカカズラは咲き急ぐ花

用賀で見かけた花。垣根にたくさん咲いていたが、気忙しい感じの花だなと思った。

梅雨の中休みの午後。

Monday, June 12

ホタルブクロ花


虫ならばホタルブクロの花の中に宿って余生を過ごしてみたい


降りみ降らずみの雨。久しぶりに用賀の庭園を歩いた。白いホタルブクロの花たちが雨に濡れそぼっている。

花の中で雨宿りしている虫もいるのかなあと思いながら…。

Tuesday, May 16

ドクダミの花


通る人それぞれ思念の霧の中ドクダミの花見る人もなく

大久保の街を歩く。喧騒の大通りから脇道に入り奥に行くと落ち着いた住宅地となる。

かつて岡本綺堂が住んでいたという町並み。往時を偲ぶものはなにも見つからないが、日陰に咲くドクダミの花は彼も目にしていたであろう。

Sunday, May 14

半七と江戸07(ズウフラ怪談)駒込富士前町


「ズウフラ怪談」

舞台は駒込富士前町の裏手の富士裏あたり。一帯は田畑の間に農家が散在するというさびしい場所で、表通りも寺が並び、町家は門前町ばかりと怪談向けの土地。

そこに真夜中になると「おうい、おうい」と何処ともなく怪しい声が響き渡るという珍事が起こるところから物語は始まる。

十字カーソルの右上が富士塚のある真光寺で、その裏を富士裏と呼んでいた。真光寺は移転しており、現在は富士神社となっている。

明治初期の地図でも表通り以外は田畑ばかりの地であることがわかる

御鷹仕込場というのが鷹匠屋敷のことで、裏に大泉院の名前が見えるが、その奥に神明宮がある。現在は駒込天祖神社。


通りは本郷通り(日光御成道)で、南に下ると本郷弥生あたりで中山道と分かれる追分がある。

地形的には神田駿河台を先端とする大きな舌状台地の上にあって、本郷通りはその台地を縦に横切っている。千川上水の埋樋が通っていた。

十字カーソルの道が本郷通りだが、このあたりは江戸期には鰻縄手と呼ばれていた。名の由来は、寺が鰻の寝床のように並んでいたからという説がある。

左側の中山道が北上して、五叉路状になっている左手に白山権現があった。現在は白山神社。

斜めに切り込んでくる道は、旧白山通りで、台地に上る道だった。下図の切絵図には「白山坂」とあり、現在は都営三田線の白山駅がある。

さて、小説のほうだが、鰻縄手に住む岩下左内という道場主がその謎の声の主を暴きだそうと門弟2名を引き連れて真夜中の富士裏を探索することになる。

神明宮あたりを歩き回っているときに、「岩下左内やぁい」という謎の声が聞こえてきたので佐内は狐の仕業と思って刀を抜いてその声に向かっていく。

先生を見失った門弟たちは、やがて他の門弟たちと暗闇を探し回って左内の死骸を発見する。

門弟の1人、伊太郎は岡崎屋という酒屋の跡取り息子で、店は白山権現前の白山前町にある。

半七たちはこの事件の捜査のために鰻縄手を行ったり来たりするのだが、道が平坦なだけに地形的には面白みに欠ける。

ネタバレだが、結局悪いのは付き添いの門弟ふたりで、伊太郎は左内の妻とできており、もう一人の旗本の次男坊喜平次は道場主の後釜狙いで主殺しを犯したことを半七は明らかにする。

話は、救いのない結末で終わっている。

ちなみに、ズーフラとはオランダから持ち込まれた一種の拡声器のこと。


🙇本ブログの地図は、地形図はアプリの「東京の古い地図2020」、切絵図は同じくアプリ「今昔大江戸めぐり」を利用しております。


Sunday, April 30

半七と江戸06(朝顔屋敷)裏四番町


安政3年(1856)の11月。裏四番町の旗本の一人息子杉野大二郎たちは、お茶の水の聖堂で行われる素読吟味に参加するために早朝まだ暗い時分に聖堂に向かっていた。

大二郎には、中小姓と中間がお供をしていたのだが、水道橋を越えたあたりで大二郎が突如として「神隠し」にあって消えてしまう。

杉野家の用人に頼み込まれた同心からの指令で、半七はその大二郎の捜索を内密に行うことになるというストーリー。

裏四番町は武家地で、現在の千代田区九段北三、四丁目で靖国神社があるあたり。

「今昔大江戸めぐり」には、「裏四番町通」の名が見えるが、その南側が裏四番町となる。

富士見坂は、現在は外濠の新見附橋へと続く。靖国神社の前の道が靖国通り(九段坂)で、左手下に市ケ谷駅がある。

失踪していた大二郎は、最後には発見されるのだが、子を思う母親の「心の闇」が作り出した狂言だということが分かる。

中小姓と中間が母親の手伝いをしていたのだが、人の不安につけ込む悪人の種はいつの時代も尽きないという定番の結末となっている。

ところで、裏四番町から水道橋まで大二郎たちはどのようなルートで歩いたのだろうか。夜道のことだから近道ではなく、安全な道を歩いていったと推測できる。

裏四番町→九段坂下る→俎板橋を左折→堀留沿いを北上→御台所町に突き当たって右折→稲荷小路の先で左折して水道橋へ出る

こんなルートではなかっただろうか。いつか実踏してみたい。

下の「今昔大江戸めぐり」を見ると、外濠沿いを歩いて水道橋の手前の小石川橋を渡るという選択肢もありそうだが、堀沿いの土手から襲われる危険性を考えると、やはりこのコースとなるのではないか。

図中央の外濠の右端の橋が水道橋。図左側の池がいくつか見える区画が裏四番町。図下の島のようなところが北の丸で、橋のようになっているのが田安御門、その前の道が九段坂となる。


🙇本ブログの地図は特に断りのないものは、アプリ「東京の古い地図2020」を利用しております。


Wednesday, April 26

半七と江戸05(大阪屋花鳥)日本橋北新堀町


天保12年(1831)の3月、浅草観音の居開帳で大混雑している浅草寺の境内から事件が始まる。

そこに来ていた日本橋北新堀の鍋久という鉄物屋の母子連れが巾着切りに遭うところをお節という娘に救われる。

それが縁でお節は母親に見込まれて日本橋新堀町の鍋久に嫁に入る。

日本橋川下流を「新堀川」と称し、その北側に沿った町を新堀町と言った。現在は日本橋箱崎町となっている。

河口には豊海橋という橋がかかっていて、河口左岸に船番所があった。「今昔大江戸めぐり」で見ると「御船手番所」とある。


なお、高尾稲荷は高尾太夫の死後(1659)、その霊を鎮めるため当地に祀られたもの。

川沿いに大川に出るとそのまま永代橋に続く。現在の永代橋は明治30年にかけ替えられ、やや下流に移っている。

永代橋と同様、豊海橋の位置も変わっている。「御宿かわせみ」の舞台になったのがこのあたり。

鍋久に嫁に入ったお節はしばらくして乱心して夫を殺し近くの新堀川に身投げするという大事件が起こる。

事件の後ろで糸を引いていたのが大阪屋花鳥という吉原の女郎崩れで、島抜けの極悪人であった。

お節もその父親の小左衛門もぐるであったのだが、花鳥が捕まった後に父娘は姿を消す。

逐電していた小左衛門は北川村にある森厳寺の淡島明神で偶然発見される。森厳寺は現在の下北沢駅の近くにあり、前には森厳寺川という川が流れていたが、いまは暗渠になっている。


🙇本ブログの地図は特に断りのないものは、アプリ「東京の古い地図2020」を利用しております。


Sunday, April 23

半七と江戸04(唐人飴)青山御熊野横丁


「唐人飴」

青山久保町の熊野権現に通じる横町は御熊野横町と呼ばれていたが、そこで2年連続で被害者が片腕を切り落とされるという刃傷沙汰があり、渡辺綱の故事にあやかって羅生門横町と呼ばれるようになった。

上図の十字カーソルあたりに熊野権現(熊野神社)があり、横町の道はその左脇の坂(勢揃坂)を下って渋谷川に向かっていた。

上図では地図のつなぎ目でずれていて見えないが、道は北上・左折して仙寿院右下の橋に出る。

右下の通りの最初の分岐点が現在の外苑前。右に向かうのが現在の青山通り。左の北上する道が六道の辻に向かう道だが、明治の終わりに青山練兵場ができて途絶した。現在は国立競技場に向かうスタジアム通りとなっている。

嘉永4年(1851)4月のある日、その横町でまた片腕が発見される。その腕は唐人衣装の筒袖をつけていたので、このあたりに商いに来る唐人飴の男ではないかと近所の人は言い合った。

縁あって神田三河町の半七は、その事件に関わるようになる。その年の9月に「青山の仇討」事件も起こり、半七たちは2つの事件を同時並行で捜査することになる。

片腕の第一発見者である常磐津の師匠・文字吉が住んでいたのがその羅生門横町にある実相寺の門前町。

「今昔大江戸めぐり」に実相寺の名がある。「同町」とあるのが門前町。その前の通りが羅生門横町で、その左先に熊野権現がある。実相寺も熊野権現も現存する。

上図の「青山五十人町」の通りが現在の青山通り。ほとんどが武家屋敷で町屋はほとんどなく、明治の半七老人も言うように江戸の場末だった。

梅窓院の隣の鳳閣寺では、坂東小三という女役者の宮芝居を打っている。小三は青山通り沿いにある善光寺の門前町に住んでいる。

上図の十字カーソルの場所が善光寺で、信濃の善光寺の別院である。

青山通りを南西に下っていくと渋谷川とぶつかるが、そのあたりが現在の渋谷駅。畑と田んぼの風景だった。

渋谷駅以北の川は現在は暗渠となっているがバブル期までは開渠で、明治の初めまで川沿いに田畑が広がっていた。原宿村という名も見える。

半七は、その善光寺で一心に祈っている市川照之助という若い役者を見かける。

照之助は、小三の女弟子の小三津といい仲になっている。祈っているのは、兄貴の岩蔵の復讐をするためで、その復讐の相手が原宿の角兵衛というやくざな男。

悶着の元は、女芝居に照之助と岩蔵という男役者が隠れて出演したことで、そこからこじれにこじれて男の二本の腕が切り落とされるという異常な事件となったことが明らかになる。

さらに、文字吉が小三津をたぶらかしたあげく痴情のもつれから殺めていたことが明らかになる。文字吉は現在でいうところのレズビアンで、弟子はすべて女だった。

唐人飴の男は、事件とは何の関係のない放蕩息子で、親の勘当を解くために趣味も兼ねて唐人飴屋をしていたのだった。


🙇本ブログの地図は特に断りのないものは、アプリ「東京の古い地図2020」を利用しております。

ナンジャモンジャの花


青山の練兵場も夢の跡ナンジャモンジャの木だけが残る

ナンジャモンジャとは、何でふものぢや(何というものだ)が訛ってできた名前だという。

青山練兵場のヒトツバタゴの木を見て、誰かが言った言葉がこの木の名前となったという説がある。

明治神宮外苑(青山練兵場の跡地)にあるナンジャモンジャの親木はもともと六道の辻にあったものを植え替えたそうだ。

六道の辻あたりの町並みはほぼ消滅しているので、土地の「生き証人」と言えなくもない…。

Saturday, April 22

半七と江戸03(青山の仇討)六道の辻


「青山の仇討」

佐倉藩から江戸見物に来た金右衛門と為吉という百性と、それぞれの娘と妹の4人の一行が青山の六道の辻で武士の仇討ちに遭遇するところから話は始まる。


六道の辻があったのは現在の神宮外苑で、地図のカーソルの右下の6つの道が集まっているところ。名前もそこから来ている。

ニ筋の道を東に行くと鮫河橋を経て四谷御門に到る。4人も四谷御門前の四谷塩町の親戚の家から来てここを通りかかったのだ。

また鮫河橋に下りる手前に権田原と呼ばれる広い荒涼とした原があった。

その仇討ちの武士は偽物だったということが分かった後、一行は目的の千駄ヶ谷谷町の親戚の家に向かう。

六道の辻を西に向かって渋谷川を越えると千寿院という広い寺がある。その脇に金右衛門の縁者茂兵衛の下総屋という米屋がある。

十字カーソルはその途中の道。道は途絶しているが仙寿院は現在も同じ場所にある。

渋谷川は現在は暗渠だが、新宿御苑から流れ出て国立競技場左側の外苑西通りを通り、やがて分かれて渋谷駅方面に向かう。


下総屋がある谷町は、切絵図では上記の場所にあるが、これは千駄ヶ「谷町」の一部表記ではないだろうか。

その後金右衛門はその武士に斬られた上、娘は誘拐されるという事件が出来する。半七たちがその捜査をしているさ中に、今度は為吉の妹も何者かに連れ去られてしまい、事件は混迷を極める。

最後に「権田原の対決」とでも言うべき見せ場があるのだが、その舞台が青山権田原町と表記されている台地。

北は信濃町駅南の谷(千日谷)と、南は赤坂御用地内の谷、東は鮫川の谷で区画された変形舌状台地である。

台地を東に緩やかに下る道が安鎮坂。四谷御門に向かう。その台地を権田原と呼んでいるようだが、どこかに広い野原があり、その真ん中には榛の木の大木があるという。

駈落ちをした若い男女がそこで首をつろうとする。その二人をたまたま半七が見つけて救い出すのだが、その半七に偽の仇討ち武士が襲いかかってきて、死闘となる。

その野原の場所ははっきりしないが、東京図で「廣芝」と書かれているところではないだろうか。

ここは現在は赤坂御用地となっているが、切絵図ではあまりはっきりとしない。もともと野原だったので、明治になって芝地に転用されたのではないだろうか。

結局、悪人は下総屋の茂兵衛ということが分かる。二人の娘たちには不運な結末だが、駆け落ちの二人にとっては、この上ない僥倖となっている。

六道の辻あたりは、神宮外苑、明治記念館、赤坂御用地と変わって当時の町並みはほぼ完全に消滅してしまったが、せめて地形に江戸の昔を偲びたい。


🙇本ブログの地図は特に断りのないものは、アプリ「東京の古い地図2020」を利用しております。

Wednesday, April 19

半七と江戸02(石燈籠)日本橋大横町



こちらは若き半七が功名を上げた事件。時は天保(1841)12年の12月の初め。半七はまだ19歳の駆け出しの頃で、彼の生い立ちについても書かれている。

半七は日本橋の木綿店の通い番頭のせがれで、父親に死に別れて母親は後家となって半七とその妹を育て上げたとある。半七は道楽肌とあるがその生育歴と無縁ではないだろう。

半七は家を飛び出して神田三河町の吉五郎という岡っ引きの子分になり、その才覚を認められて吉五郎亡き後その跡目を継ぐ。

半七がかって知ったる日本橋横町(現在の日本橋本町四丁目あたり)の小間物屋・菊屋で事件は起こった。

横町は切絵図では大横町で、東堀留川にかかる道浄橋の先から竜閑川(途中で埋め立てられている)の手前の横町らしい。


一人娘が浅草の観音様へお詣りに出かけて姿を消したという相談を受けて半七は(親分の指揮のもと)捜査に乗り出す。

しばらくして娘は帰ってきたのだが、その娘がなんと母親の女主人を殺して再び姿を消す。半七は女軽業師春風小柳が怪しいと目星をつける。

小柳が出る両国広小路の見世物小屋をのぞいた半七はその足で向う両国の駒止橋(駒留橋)に向かう。

駒止橋は両国橋北側の入堀にかかっていた小橋で東京図には載っているが、その後すぐに埋め立てられた。


駒止橋あたりに小柳とその若いツバメ・金次が住んでいる。犯行を白状する金次と半七のやりとりも味がある。

捕まった小柳は身繕いをしたいと家に戻る途中で両国橋から大川に身を投げてしまう。小柳の切ない女心が巧みに描かれている。

地図で分かるように当時の両国橋は現在よりも少し下流にかかっていたが、明治37年に鉄橋としてかけ替えられている。

寒々とした冬の大川の情景描写がとてもよい。御船蔵の上を雁の群れが鳴きながら飛んでいくという描写などは明治になっても実際に見られた情景だったのだろう。

御船蔵は両国橋よりも下流左岸(竪川から新大橋の間)にあった幕府の艦船の格納庫。


🙇本ブログの地図は特に断りのないものは、アプリ「東京の古い地図2020」を利用しております。

Monday, April 17

フジの花


急な雨通り過ぎたら青空がさっと広がり藤の花咲く


最近の天気予報は当てになる。

都内では予報通り好天が崩れて急な雨。雹が降ったところもあったようだ。

気がつくともうフジの花が咲く頃になっていた。

Sunday, April 16

半七と江戸01(お文の魂)西江戸川町


元治元(1864)年3月末の話、「小幡の屋敷の八重桜にも青い葉がもう目立っていた」とある。陰暦3月は、現在の4月末から5月初め。

幽霊が出るという小幡伊織の屋敷は西江戸川町にあった。そこから音羽、そして小幡家の菩提寺である池の端の浄円寺が舞台となっている。

西江戸川町は現在の水道1、2丁目あたり。当時は武家屋敷が並んでいた。

小日向台下には神田上水が流れていた(地図では8がある道路)が、半七たちもこの上水脇の道を歩いて音羽から池の端へ向かったかもしれない。上水は明治初期の東京図ではすでに暗渠になっている。

カーソルの西江戸川町あたりは池が多いことが分かる。台地からの湧水があったのだろう。切絵図では一帯は武家地となっている。

東京図には製紙会社の名前もあり、現在でもトッパンなど印刷関係の会社がある。大きなマンションが目につく。

神田上水の南側の一帯は切絵図では「御持組大縄地」という拝領地で、小さな家が立ち並んでいる。

地図右下で神田上水とクロスするところが安藤坂。当時はかなり坂で、上りやすいようにクランク状になっている。

坂を上って進むと伝通院に突き当たる。右折して善光寺坂を下り、小石川(谷端川)、東大下水(白山通り)を越えて新坂を上っていったのだろうか。

新坂が当時もあったのかはよく分からない。「大江戸今昔めぐり」によると、阿部伊勢守の屋敷内?を抜けられるように見えるのだがどうだろうか。東京図では道路が整備されている途中のようだ。


本郷通りから暗闇坂を下って池の端の手前に浄円寺がある。その名は切絵図には載っているが迅速図はそれらしき寺はない。明治初年に廃寺になったようだ。

小説では生臭坊主がいて、小幡の若い妻をたらしこもうと悪巧みしているので、さすがに執筆当時に実在する寺ではまずいだろう。

農学部があったところはもと水戸藩中屋敷、本郷キャンパス(医学部がある)あたりはもと加賀藩上屋敷だったところ。

暗闇坂はその間を通る道。江戸時代は樹木の生い茂った裏道だったようだ。

こちらも「大江戸今昔めぐり」によると現在の暗闇坂は水戸屋敷内にあり、明治期に通されたものらしい。加賀藩屋敷内?に池の端に抜けられそうな道があるが、実際に抜けられたのかは分からない。

長方形の区画は、東京共同射的会社の射的場(射撃場)。弥生美術館や竹下夢二美術館がある。現在の町の区画にその面影が残っている。

実際に歩いてみたが(寄り道しながらだったが)1時間半以上かかった。アップダウンもあり、けっこう疲れた。健脚だった江戸の人には大した道ではなかったかもしれないが…。


🙇本ブログの地図は特に断りのないものは、アプリ「東京の古い地図2020」を利用しております。

Tuesday, April 11

モッコウバラの花


この花に香りがないのはよかったねモッコウバラに覆われた家


モッコウバラの花が咲き出している。

散歩の途中で見かけたモッコウバラの家。
香りがすごいんだろうなと思ったが、ネットで調べると八重の黄色い花には香りがないそうだ。


Monday, April 10

ツルニチニチソウの花


道端のツルニチニチソウの花の中コソコソ隠れておったか小蜘蛛


猪方用水の跡を歩いていると道端にツルニチニチソウが繁茂していた。近寄って紫の花を見て写真を撮った。

後からよく見てみると、蕊だと思ったのは小さな蜘蛛だった。

頭のあたりにあるのはなんだろうか?

多摩川の堰。風が強かった。

Sunday, April 9

『半七捕物帳 年代版1』(お文の魂)


半七が思案しながら歩く江戸気づけばそこは東京の街


『半七捕物帳 年代版1』を読んで。

「半七捕物帳」を読む愉しさは人それぞれだろうが、私はとりわけその地理に関心を持つ。もちろん、そのストーリーの面白さがあっての上での話だが。

作者の岡本綺堂が参考にしたのが「江戸切絵図」(「切絵図」)。この地図は概念図であって、実際の地理を知るには明治になって作成された「東京図測量原図」(「東京図」)や「迅速測図原図」(「迅速図」)等と比較してみなければならない。

年代的には20〜30年経っているが、地理的にはそれほど大きな変化はなかったように思う。

さて、この作品集は年代順の構成になっているのだが、「お文の魂」は半七がはじめて登場する作品なので例外的に冒頭に置かれている。

舞台となっているのは小石川西江戸川端(現在の文京区水道1、2丁目あたり)にある小幡伊織という旗本の屋敷。

そこにお文という幽霊が出るという話から本作は始まるのだが、その屋敷には百坪ほどの古池があり、池浚い(掻掘)をしている。

東京図を見ると確かにこのあたりには池が多い。後背の高台からの湧水もあったようだ。低湿地だったのだろう。幽霊には好適?の地。

半七たちは、音羽→安藤坂→本郷→池の端と歩いて目的地の下谷の浄円寺に至ったと書いてある。本の注釈によると浄円寺は明治初年まであったそうで、切絵図にもその名がある。作者もチェックしてその名を作中に入れたのであろう。

結局、黒幕は浄円寺の生臭坊主だったのだが、伊織の妻がまったくの無実だったかは読者の想像に委ねられている(たぶんよろめきかかったのであろうが、綺堂はそんな野暮な詮索はしない)

切絵図と東京図を見比べて、彼らはこんなコースを歩いたのではないだろうかと想像した。

音羽→神田上水沿いの道(明治には暗渠化)→安藤坂(上る)→伝通院前右折→善光寺坂(下る)→小石川(谷端川とも言う、越える)→東大下水(白山通り、越える)→新坂(上る)→中山道・千川上水(本郷通り、越える)→水戸殿と加賀中納言殿の屋敷の間(切絵図には道はない、現在の東大工学部と農学部の間、言問通り)→暗闇坂(下る)→浄円寺(現存する宗賢寺の隣にあった)

いたるところに「水」があるのは興味深い。そのうち実踏してみたい。

Wednesday, April 5

ミツバツツジの花


鬱屈の人よ檻から出てごらんミツバツツジがもう咲いてるよ


戸越公園で見かけたミツバツツジの花。このあたりは江戸時代は、細川家下屋敷があったところ。

桜も葉桜となり、花吹雪の中を子どもたちが遊んでいる。

そんな中にも鬱屈の人はいる。まるで心の檻の中に閉じ込められているように…。

Tuesday, April 4

ヤマブキの花


崖下の暗渠の小道にヤマブキの花咲くしっかり余所見をせよと



水窪川の暗渠道。池袋から都電の線路を越えて江戸川橋まで。ビル群や新旧の住宅の間を縫うように小道が続く。

高低差のある崖の下を通ることが多い。崖上の丘に上がるには何段もある階段を上らなければならない。

道の両側は住宅が密集しているので急に長い階段が現れてくる。

Saturday, March 18

マボケの花


遠目には清楚な花に心せよ寄れば刺されるマボケの棘に


茂みの中に白地に薄いピンクの花が咲いていた。バラかと思って近づいてみると鋭い棘に刺された。キレイな花には棘がある。

マボケの花。バラ科。カリンのような果実ができるという。その頃にまた来てみたい(棘に用心して)。

Friday, March 17

『シンプルで合理的な人生設計』


探しても見つけられない青い鳥は心の中の物語に棲む


『シンプルで合理的な人生設計』(橘玲)を読んで。

例によって橘玲さんの文章は身も蓋もない。本書も多くの人にとっては「不都合な真実」かもしれない。

「幸福」を、金融資本、人的資本、社会資本の総体として定義したときに、その3つから隔絶して生きている人たちにとって本書は面白くも何ともない本となるだろう。

貯金や資産はない、いい仕事にもありつけない、恋人も友だちもいない、そんな人がこの本を読んでも絶望や怒りしか湧いてこないのでないか。

何かの「陰謀」で自分からそれらが奪われていると憎悪を膨らませるか(手製銃の暗殺者のように)、「親ガチャ」思考で親が悪いと諦めるしかないのでは…。

成功するための資質(知能や運動能力、あるいは性格なども)は、かなり遺伝で決まっているという。だから能力や才能のある人は一時の不遇があってもいずれは頭角を現して成功の道へ進む(途中で投げ出さない限り)。

つまり、親から資産や人的資本を譲り受けるか、遺伝的な「ギフト」をもらっていない多くの人間にとって成功への道は厳しいということになる。

幸せは、お金ではない、恋人や友だちに恵まれてなくても、一人ぼっちでも自分のしたいように生きるのが幸せです、という幸福論もあるだろうが、本書はそういった弥縫の考え方は取らない。

一昔前なら、俺には金融資本も人的資本もない(貯金なしで低賃金)が、大事な家族がある(社会資本がある)という幸福論もあったのだろうが、今は低収入だと結婚も難しい。

つまり、幸福な人は、その3つの資本すべてを手に入れて、不幸な人はすべてから遠ざけられている(というか、それが「幸福」と「不幸」の定義となっている)。

実態的には、金融資本→人的資本→社会資本というベクトルがあるように思う(親が裕福かどうかが大きな決め手)。

この、ある意味当たり前の現実の中で、私が本書から得た教訓?は、

よく眠る、散歩する、好きな仕事を死ぬまで続ける、親密な人間関係を維持する、投資するならインデックスファンド…

ぐらいだろうか…。シンプルではある。


シキミの花


ふと見ると人家の生垣にシキミ咲く気づかぬままに幾年月か


あちこちに花が咲き出している。ふらふらと花を見ながら近所を歩いていたら人家の生垣に白い花が咲いていた。

まさかと近寄って見るとシキミの花。

墓地などではよく見るのだが、ふつうの家の生垣になっているとは…。

その実は猛毒だというが、どうするのだろうか?

過去の写真だが、形がけっこう禍々しい。食べたら怖いぞ!と主張しているかのようだ。

Thursday, March 16

シデコブシの花


年ごとに紙垂とは聞こえず死出と聞くシデコブシの花まねくがごとく


シデコブシの花が満開。シデとは紙垂、つまりサカキの枝や串などに垂らす紙片や布のこと。

拝めば霊験あらたかかも…。

Wednesday, March 15

ソメイヨシノの花


こんな偶然あるかと思った昨春の出逢いは事無くまた桜咲く


3月末から4月の初めにかけては毎年様々の別れと出会いがある。

歳を取れば取るほどそれらは淡白となっていくのだが、それでも心が波立つときもある。

心が波立ってもすぐに波は凪いでしまってそれっきりというのが寂しい…。


Tuesday, March 14

ハナズオウのつぼみ


枝々につぼみ膨らむ花蘇芳おそらく一番美しき頃


いつの間にかハナズオウの豆果が消えて枝々につぼみが膨らんでいる。

あまり目立たない花だが、花が咲く前のつぼみたちは生命力が満ち溢れていて、美しいと思う。

この木が豆果だらけになるとまた秋になっている…。

Monday, March 13

サンシュユの花


またここに戻ってきたかとサンシュユの花咲く裏道ゆるりと向かう


2年前まで通っていた裏道。またその道を歩くことになりそうだ。

ひっそりと咲いていたサンシュユの花。何度も眺めながら歩いたことを思い出す。

〈おかえり〉と言ったかどうか…。

Friday, March 10

シモクレンの花


あられもないものの如くに木蓮の白き花弁の奥に蕊あり


木蓮の花。私が知っている木蓮(シモクレン)は花弁の内側がもっと紫だったような気がするのだが…。

中の花芯まで観察できることはあまりないので、近寄って覗いてみた。

いつもは隠れているものを見る行為はなんとなく疚しいのは、なぜだろうか?

六根清浄!

Wednesday, March 8

ハクモクレンの花


燦々と空から降り来る陽光に白木蓮咲く湧き立つ如く


ここ二日ほどの陽気のせいで、あちこちのハクモクレンが一斉に花を咲かせている。

花々の歓喜の様が見て取れる。聞こえない歌を歌い、見えない踊りを踊っているに違いない。

恩寵のような光…。

Thursday, February 23

林試の森の河津桜


そこだけは春の盛りと人集う河津桜の花咲く森に



林試の森は何度も出かけた公園だが、河津桜の名所とは知らなかった。

この時期に初めて歩いてみて河津桜の花と出逢うことができた。

花との出逢いもまた一期一会。

枯木ばかりの森の中を歩いていると、花咲く広場のような場所があって花見の人々がいい感じで集まっていた。場所柄外国人も多い。

落ちた花びらを拾ってポリ袋に集めている子どももいた。花びら狩り?

Tuesday, February 21

『黒百合』


少年の少女に挿頭せし白百合は見えぬが故に今なほ白し


『黒百合』(多重斗志之)を読んで。

ミステリー文芸というべき作品。

14歳の3人の少年少女(一彦、進、香)が避暑地六甲山で過ごしたひと夏の体験が中心的なストーリー。

それに彼らの親たちの物語が重なって最後にひとつのミステリーに収斂していくという展開。

ストーリーは割愛するが、ミステリーとして見たときに、最後の種明かしで明らかになった相田真千子と倉沢日登美の関係など、ツジツマ合わせ的な不自然さが残る。

2人はお互いを認識しているはずだが過去は精算して何事もなく暮らしているのだろうか?

また真千子の「性癖」や行動様式は戦後激変したのであろうか?

いずれもなんらかの説明がほしいところ(ヒントのようなものを私が見落としているだけかもしれないが)。

それ以外にも貴代司の脅迫と殺人などちょっとご都合主義的すぎるのではないか。それならば「おばさん」の仮面をかぶった真千子の凄みにも触れるべきでは?

むしろ最後の殺人はなしにして真千子のキャラ変と見える変化の「真相」を最後に謎解きするような展開もあったのでは?

浅木と真千子に「君の名は」のような波乱万丈があったと匂わせるという終わり方もあったのでは?

いろいろと難癖をつけているようで恐縮だが、読者が書かれていない物語を空想してはどうかということかもしれない。

いずれにしても余韻の残るすぐれた作品であることは確か。

今更ながらだが、著者の失踪は残念でならない。

Friday, February 17

白梅の花


白梅の花々しばらく見比べて清楚な一花を「推し花」とする



十数年ぶり(もっと前?)に蛇崩川緑道(三軒茶屋〜中目黒)を歩いた。まだ花のない季節で白梅が一番目立っていた。

以前は佐藤佐太郎の歌に感化されて歩いたのだが、今回すっかり忘れて彼の歌碑も見落としてしまった。

晩年の佐藤佐太郎が散歩したときにはまだ蛇崩川は開渠で流れていた。

川沿いの道を歩いたのだろうが、たぶん土の道でのどかな風景だったのだろう。

左岸が丘になっていてそこに上る坂もわりと急で足弱の老人にはきつかったのではないか。

最晩年の歌に、

近く死ぬわれかと思ふ時のあり蛇崩坂を歩みゐるとき

というのがあるが、彼の散歩のお供は「死」だったのかもしれない。

蛇崩坂という名前の坂はないようだ。

Wednesday, February 8

『普通という異常』


いいねいいね、いいねの数字が僕たちの栄養となる似非メタバース


普通という異常』(兼本浩祐)を読んで。参考:『光のとこにいてね』(一穂ミチ)

本書で「いじわるコミュニケーション(いじコミ)」という言葉を知った。著者の造語かもしれないが、なかなかよくできた言葉だと思う。

いじコミは、「適度な量のいじわるをお互いの社会的階層(子ども社会のなかでの大げさにいえばスクールカーストのようなもの)や個人的力量に応じて小出しにジャブ打ちしながら、自分の子ども社会における立ち位置を決めていく技術」とある。

良し悪しはともかく、いじコミは子ども社会でも大人の社会でも欠くことのできない対人スキルとなっている。直接的な暴力を避けて社会的な序列や秩序を維持していくという文化的な「暴力装置」という側面もある。

多くの場合、いじコミは正当な口実のもとに無自覚に行われていて、ドラマのような直接的ないじわるは少ないのではないか。

大人(子どもではなおさら)の社会で円滑に生きていくためには、このいじコミに習熟する必要があるのだが、その能力がきわめて低い人たちも存在する。

ADHD(注意欠陥・多動性障害)やASD(自閉症スペクトラム)と呼ばれる人たちだが、それらを症状ではなく傾向と考えるのが本書の立場。だれでもADHD性やASD性を持っている。

彼らは、往々にして微細ないじコミを認知できないので、コミュニケーションを取る側はさらに強烈ないじコミを仕掛けるか、完全に黙殺するという形になりがちだ。

世間は、いじコミ力のある多数の人たちを健常発達(定形発達)と見るわけだが、その健常発達も行き過ぎるとひとつの「症状」を呈することがあると本書は警告する。

たとえば、健常発達の人たちは、あまりにもまわりの「いいね」に依存しているために、往々にして自分が何をしたいのかわからなくなる。「いいね」に押しつぶされてしまう人も出てくる。


最近、『光のとこにいてね』というガールズラブの小説を読んだのだが、母親の「いいね」の支配下に生きる結珠という女性が出てくる。 

結珠は、小さい頃から母親の期待を先取りして優等生のいい子を生きることしかできない。彼女は母親の「いいね」で出来ている。

小説では、結珠がその「毒親」の軛から自由になっていく過程が、運命的(本人たちがそう信じている)な恋愛の進展と相まって描かれていて興味深い。しかし現実はもっとマイルドで強固で、無自覚的なもの。

この小説の人物設定がわかりやすいので、登場人物の誰にどういう感情を抱くかというところで、自分の「無自覚」に気づくことができるのではないだろうか。

最後の章で、健常発達の人たちが陥る生きにくさや病的な問題にどう対処すればいいかということに触れられている。

最終章は様々なことが書かれているが、要は内なる「ノマド的なADHD的心性」を活用してはどうかということ。今・ここで生じる感覚的な実感の手応えによって進路を決めていく「ノマド的」な生き方だ。

『光のとこにいてね』では、結珠と惹かれ合う夏遠の生き方がまさにそれで、夏遠は他人(自分の子も含めて)からどう思われるかではなく、自分がしたいと思うことに忠実に生きている。

本書には「母親との決別」という項目があるが、まさに小説の結珠は、夏遠のノマド的心性を自らの中に取り込むことによって母親との決別を果たしたといえる。