Monday, February 28

白梅


白梅の枝にミノムシ垂れている絶滅危惧種と言うけどホント?


烏山。キレイな白梅の花が咲いていた。ふと見るとその枝にミノムシがぶら下がっている。最近見ないなあと思ったら絶滅危惧種になっているとか。

Sunday, February 27

白梅


道行く人幸せそうに見える午後風に吹かれる白梅を見る


砧公園の近く。久しぶりに「梅園」を見た。紅梅も白梅もいい感じに咲いている。早春の風で花も揺れている。気持ちのよい午後のはずなのに、心愉しめない。心の焦点が定まっていない感じがする。そんな日もある。

Saturday, February 26

ケヤキ


子どもらの遊ぶ公園見上げればケヤキの梢に古巣がおわす


子どもたちが遊んでいる公園。カラスの古巣だろうか、ケヤキの梢に鎮座するのは。春になるとカラスの巣作りが始まる。この木の古巣がリサイクルされるのだろうか。

Friday, February 25

「ドライブ・マイ・カー」


いつの日か死にたい辛いと思ったらソーニャの手話を思い出そうか



「ドライブ・マイ・カー」を読んで。

映画の「ドライブ・マイ・カー」を観て、小説を読み返してみた。原作とはずいぶん違った作品にメタモルフォーゼされていたが、どちらも嫌いではない。

小説では主人公の家福がワーニャ伯父さんなら、ドライバーのみさきがソーニャだ。彼女の言葉には癒やしの力がある。

しかし映画ではむしろ芝居の中でソーニャ役を演じる韓国人女性の手話の方に言葉以上の説得力を感じた。なぜだろうか。

「ドライブ・マイ・カー」は、短編集『女のいない男たち』に収録されているが、短編集を貫くテーマがこの題名ということになる。

「女のいない男たち」とは、「女に去られた(そしてその不在に苦しむ)男たち」という意味だろう。

小説と映画では妻との関係は微妙に異なるが、家福は妻が他の男性と性的関係を持っていることを知っていて、それを妻に問いただせないままに妻に先立たれてしまう。

二人の間は夫婦として満ち足りたものだったはずなのに、なぜ妻は他の男(しかも自分よりも魅力がないと思われる)と性的関係を重ねていたのか、どうしても家福は理解できず、妻の死後もずっと苦しみ続けている。

小説のみさきは、家福を慰めるようにこう言う。

「そういうのって、病みたいなものなんです、家福さん。考えたってどうなるものではありません。・・・
こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」

※芝居でソーニャがワーニャ伯父さんを慰める言葉はこちら↓

Thursday, February 24

フキノトウ


雪間から出れば愛しい蕗の薹掃き溜めに出て見る人もなし


駅舎の隣の空き地。空き缶などのゴミが散乱している。そこに繁茂していたフキの葉はほとんど枯れてそばからフキの新芽が出てきている。一応、フキノトウなのだが、誰も見る人もいない。そのほうが摘まれなくて幸せなのかもしれないが。

Wednesday, February 23

七色ニンジン


にぎやかな自然農園立ち話終えて七色ニンジン買った


いつもの散歩道。去年は荒れ地だったところが耕されて農地になっている。今日はたまたまその直売日だった。無農薬の自然農園で、ファームの人たちが来ていたのでちょっと立ち話をする。いくつかの場所で無農薬野菜の耕作や直売をしているという。今日はかわいい七色ニンジンを買ったが、袋もエコだった。応援していきたい。☻

Tuesday, February 22

『僕たちは、宇宙のことぜんぜんわからない』


光あれと誰が言ったかこの宇宙のろい光が我らを護る


『僕たちは、宇宙のことぜんぜんわからない』を読んで。

宇宙の分かりやすい入門書だが、分かりやすすぎて分かった気になれない(笑)。

光速がこの宇宙の「制限速度」だというところを読んで『三体』の「暗黒森林理論」を思い出した。

この宇宙は暗黒の森林のようなものであり、そこでは知的生命体は、いわば森の中の猟師のようなものだという理論だ。

つまり、相手を発見したら、先に撃たなければ自分が撃たれてしまうという相互不信の対応こそが宇宙の現実だという考え方だ。

幸い、光速は「ひじょうに遅い」おかげで宇宙の知的生命体の間には「適度な距離」があり、お互いが脅威と感じなくてもいい関係を保ちやすい。

少なくとも我々の太陽系はそのような立地条件のように見える。


Monday, February 21

キダチアロエ


垣根から飛び出し咲いていたキダチアロエも冬が終われば、終わる


いつもの通り道。冬の間、荒庭から飛び出し咲いていたキダチアロエの花。最初はオレンジの総状花序がたくさん鮮やかに咲いていたが、次第に花を落として今では残る花はわずか。冬とともに去っていく花のように思える。さようなら、キダッチー。☻

Sunday, February 20

ハナモモ


ハナモモの幹を傷ますコスカシバ漢字は優雅な小透翅とか


散歩道のハナモモの木。上はたくさんのキノコに占拠され、下はコスカシバ(小透翅蛾)という害虫に侵されている。左下の樹脂は木に巣食う幼虫を押し出すために木が出しているものらしい。ちなみに黒っぽいのは虫糞。この木はもう長くは保たないかもしれない。

Saturday, February 19

『独ソ戦』


戦争の顔はおそらく女でも男でもない顔のない顔


『独ソ戦』(大木毅著)を読んで。

戦争について書かれた本を読むとしばらく何とも言えない感情にとらわれる。それは怖れかもしれないし、怒りかもしれない。

この本は、独ソ戦がスラヴ人の絶滅を目指す「絶滅戦争」であったと説く。80年前の人たちがそんな「野蛮」を信じていたことに愕然とするが、今当たり前のように語られる「多様性」の議論もつい最近の潮流だと気づかされる。

戦争も恐ろしいが、それよりもその根っこにある思想が怖い。人間の恐ろしさは「正義」の恐ろしさ。

Friday, February 18

カンザクラ


おそらくは寒桜かな通り道呼ばれたように桜に出合う


自転車で通り過ぎるときに横から呼ばれた気がして見ると、桜?今ごろ?と思いながら近づくとどうやらカンザクラらしい。まだ蕾も多いが、咲いているものもあり、しばらく見上げていた。いい桜を見た。☻

Thursday, February 17

紅梅


紅梅もよくよく見るとその雄しべちょっと多すぎ長すぎ?かな


白梅も紅梅もずいぶん花が咲いてきている。遠くから見るとそうでもないが写真を撮ろうと紅梅に近づいて見ると、その繁多な雄しべが目立つ。見ようによっては奇妙な海月みたいだ。やはり香りを愉しむだけにしておこう。☻

Wednesday, February 16

アオキ


冬芽からもうすぐ花芽も葉芽も出る、病のアオキにその日はありや


公園の植込みのアオキ。どうやら炭そ病にかかっているらしい。もしそうなら伝染病が広がらないように刈り取られるだろう。植木屋の車が近くに停まっていたので、あるいはその処置かもしれない。痛々しい。

Tuesday, February 15

イロハモミジ


いまだ飛ぶ機会を狙うか、一機だけイロハモミジの翼が残る


烏山の公園。すっかり葉を落として裸になったイロハモミジの木。枝先には冬芽も見えている。よく見るとひとつだけ翼果が残っているものがあった。まだ飛ぶチャンスを狙っているのか、あるいは何らかのトラブルか。本懐を遂げてほしいものだ。

Monday, February 14

ホトケノザ


雪降らずホッとしてるか、ホトケノザその葉で玉の露抱えてる


職場近くのホトケノザの群生地。いくつか花をつけているものもあるが、多くはこれから花を咲かせようとしてしている様子。昨夜は雪ではなく雨だったが、なぜか午後になっても露をしっかりと保持している。乾燥対策?

Sunday, February 13

アセビ


二月には気まぐれな雪やり過ごし馬酔木のつぼみは咲き時を待つ


今夜もまた雪が積もりそうだ。昼間見たアセビのつぼみは咲き始めている花もあったが、本格的な開花は「雪のシーズン」が終わった頃かもしれない。(予報はハズレでした☻)

Saturday, February 12

『米澤書店』


淋しきは町の本屋が消えること、負けるな仮想の書店主たちよ

 
『米澤屋書店』(米澤穂信著)を読んで。

著者は一時期書店員だったという。本好きの氏が作家の道を歩まなければどこかで本屋さんになっていたかもしれない。本好きがいるかぎり本屋は不滅だ。

リアルな本屋が減っていく昨今にあって、本書のような仮想書店をきっかけとしてリアルな本屋が生まれていくことを祈りたい。(ちなみにこの書店はミステリー専門店。お世話になります☻)

Friday, February 11

ロウバイ


蝋梅の花も終わりが近くその香りで心鎮めた日あり


散歩道のロウバイの花。盛りがすぎてしまったが相変わらずよい香りを発している。先月別の場所でその香りに慰められたことを思い出した。そちらはソシンロウバイだったが、こちらは花芯に赤みがあるのでマンゲツロウバイらしい。いずれも包み込むような優しい香りがする。

Thursday, February 10

東京に

とうきょうにゆきふるこんやはそうもくもちかづくはるのひかりをまつか

東京に雪降る今夜は草木も近づく春の光を待つか

立春の後、南岸低気圧が通過するときに東京に雪が降るパターンとなる。この年中行事が過ぎると本当の春がやって来る。首を長くして待ち望んでいるのは人よりも草木の方だろう。

Wednesday, February 9

梢では

こずえではひよどりぴーぴーなきさわぐあしたはゆきだといってるふうに

梢ではヒヨドリピーピー鳴き騒ぐ明日は雪だと言ってるふうに

木々の梢でヒヨドリが鳴き騒いでいる。まるで明日の雪のことをみんなで言い合っているように聞こえる。

Tuesday, February 8

切られた木


切られた木見かけて何かを感じれば地球の未来の姿も変わる


ツイッターで「切られた木」というハッシュタグで、いろいろな切られた木の写真が投稿されていた。大半は、単に面白いものを見つけたということだろうが、何かもやもやした感情を抱く人もいるかもしれない。それは理屈では説明できない感情だが、何かが変だという根源的な違和感だ。はたしてこのままでいいのだろうか。切られた木たちは私たちに何かを訴え続けている。

Monday, February 7

ミツマタ


ミツマタのつぼみが枝のあちこちに垂れてもふもふ思わず撫でる


ミツマタのつぼみが充実している。その灰白色に黄色みがさして開花が近いことを告げている。もふもふしたつぼみに触ってみると子どもの頭を撫でるような気分になる。もうすぐだよ。

Sunday, February 6

ボケ


灌木の中に埋もれて咲くボケをモッケと呼んで幸いとする



ボケの花。高い枝いっぱいに咲く花もあれば、低木の中に埋もれるように咲いている花もある。私の好みは目立たぬように咲いている低木の中の花。花も少し汚れたような風情がいい。ボケはもともと木瓜でモクケと呼んだらしい。


Saturday, February 5

シナマンサク


枯葉から幾つも花弁が飛び出してシナマンサクが動けば怖いぞ


近所の散歩道。マンサクの花が咲いていた。花弁の付け根が赤いのでシナマンサクだろう。色合いといい、捩れた形といい、なんだか虫めいていて素直に愛でる気持ちになれなかった。偏見ですね。

Friday, February 4

白梅


荒れ庭に残されていた一本の木に白いもの白梅らしい

荒れ庭の前を自転車で通ったときに枯れ木に白いものがちらっと見えた。通り過ぎて、ああ白梅だったのだと気づいた。愛でる人のいない梅の花。

Thursday, February 3

枯れたフキ


フキ枯れてコーヒー缶が散乱する同じ銘柄同じ人類

駅のホーム横の空地を独占していたフキが枯れ始めている。地面が見えてくると同じ銘柄の缶コーヒーの空き缶が散乱している。おそらく同一人物の仕業だろう。残念なサピエンス。

Wednesday, February 2

マンリョウの実


マンリョウの赤い実いくつも食われてる鳥たちどんな姿勢で啄く

林の中のマンリョウ。いくつかの赤い実が鳥に食われているようだが、この低木の垂れ下がっている実をどうやってつつくのだろうか。

Tuesday, February 1

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』


出合うとき片や生者で片や死者生きてる自分は死んでた自分

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む。『ライ麦畑でつかまえて』に比べるとやはり訳語が新しい。村上春樹がこの作品からかなりの影響を受けたことがよく分かる。再読だが、今回は『謎ときサリンジャー』に触発されて読んでみた。「キャッチャー」を目指したホールデンが妹フィービーの「警策」の一言によって生と死には「catch」はなく、ただ「meet」しかないことに気づくという解釈だ。なるほど、そのように読むとホールデンが手当り次第まわりの人間を「インチキ野郎」と罵倒しているこの物語が違った様相を帯びてくる。「インチキ」ではないこの生の世界の実相とはなんだろうか?思うに、白血病で死んだ弟アリーはホールデンでもあってもいいわけで、生きているのは弟かもしれない。とすれば、ホールデンは本当は存在しないのかもしれない。不思議な作品だ。