烏山。キレイな白梅の花が咲いていた。ふと見るとその枝にミノムシがぶら下がっている。最近見ないなあと思ったら絶滅危惧種になっているとか。
Sunday, February 27
Saturday, February 26
Friday, February 25
「ドライブ・マイ・カー」
いつの日か死にたい辛いと思ったらソーニャの手話を思い出そうか
「ドライブ・マイ・カー」を読んで。
映画の「ドライブ・マイ・カー」を観て、小説を読み返してみた。原作とはずいぶん違った作品にメタモルフォーゼされていたが、どちらも嫌いではない。
小説では主人公の家福がワーニャ伯父さんなら、ドライバーのみさきがソーニャだ。彼女の言葉には癒やしの力がある。
しかし映画ではむしろ芝居の中でソーニャ役を演じる韓国人女性の手話の方に言葉以上の説得力を感じた。なぜだろうか。
「ドライブ・マイ・カー」は、短編集『女のいない男たち』に収録されているが、短編集を貫くテーマがこの題名ということになる。
「女のいない男たち」とは、「女に去られた(そしてその不在に苦しむ)男たち」という意味だろう。
小説と映画では妻との関係は微妙に異なるが、家福は妻が他の男性と性的関係を持っていることを知っていて、それを妻に問いただせないままに妻に先立たれてしまう。
二人の間は夫婦として満ち足りたものだったはずなのに、なぜ妻は他の男(しかも自分よりも魅力がないと思われる)と性的関係を重ねていたのか、どうしても家福は理解できず、妻の死後もずっと苦しみ続けている。
小説のみさきは、家福を慰めるようにこう言う。
「そういうのって、病みたいなものなんです、家福さん。考えたってどうなるものではありません。・・・
こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」
※芝居でソーニャがワーニャ伯父さんを慰める言葉はこちら↓
Thursday, February 24
Wednesday, February 23
Tuesday, February 22
『僕たちは、宇宙のことぜんぜんわからない』
『僕たちは、宇宙のことぜんぜんわからない』を読んで。
宇宙の分かりやすい入門書だが、分かりやすすぎて分かった気になれない(笑)。
光速がこの宇宙の「制限速度」だというところを読んで『三体』の「暗黒森林理論」を思い出した。
この宇宙は暗黒の森林のようなものであり、そこでは知的生命体は、いわば森の中の猟師のようなものだという理論だ。
つまり、相手を発見したら、先に撃たなければ自分が撃たれてしまうという相互不信の対応こそが宇宙の現実だという考え方だ。
幸い、光速は「ひじょうに遅い」おかげで宇宙の知的生命体の間には「適度な距離」があり、お互いが脅威と感じなくてもいい関係を保ちやすい。
少なくとも我々の太陽系はそのような立地条件のように見える。
Monday, February 21
Sunday, February 20
ハナモモ
散歩道のハナモモの木。上はたくさんのキノコに占拠され、下はコスカシバ(小透翅蛾)という害虫に侵されている。左下の樹脂は木に巣食う幼虫を押し出すために木が出しているものらしい。ちなみに黒っぽいのは虫糞。この木はもう長くは保たないかもしれない。
Saturday, February 19
『独ソ戦』
『独ソ戦』(大木毅著)を読んで。
戦争について書かれた本を読むとしばらく何とも言えない感情にとらわれる。それは怖れかもしれないし、怒りかもしれない。
この本は、独ソ戦がスラヴ人の絶滅を目指す「絶滅戦争」であったと説く。80年前の人たちがそんな「野蛮」を信じていたことに愕然とするが、今当たり前のように語られる「多様性」の議論もつい最近の潮流だと気づかされる。
戦争も恐ろしいが、それよりもその根っこにある思想が怖い。人間の恐ろしさは「正義」の恐ろしさ。
Friday, February 18
Thursday, February 17
Wednesday, February 16
Tuesday, February 15
Monday, February 14
Sunday, February 13
Saturday, February 12
Friday, February 11
Thursday, February 10
Wednesday, February 9
Tuesday, February 8
Monday, February 7
Sunday, February 6
Saturday, February 5
Friday, February 4
Thursday, February 3
Wednesday, February 2
Tuesday, February 1
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
出合うとき片や生者で片や死者生きてる自分は死んでた自分
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む。『ライ麦畑でつかまえて』に比べるとやはり訳語が新しい。村上春樹がこの作品からかなりの影響を受けたことがよく分かる。再読だが、今回は『謎ときサリンジャー』に触発されて読んでみた。「キャッチャー」を目指したホールデンが妹フィービーの「警策」の一言によって生と死には「catch」はなく、ただ「meet」しかないことに気づくという解釈だ。なるほど、そのように読むとホールデンが手当り次第まわりの人間を「インチキ野郎」と罵倒しているこの物語が違った様相を帯びてくる。「インチキ」ではないこの生の世界の実相とはなんだろうか?思うに、白血病で死んだ弟アリーはホールデンでもあってもいいわけで、生きているのは弟かもしれない。とすれば、ホールデンは本当は存在しないのかもしれない。不思議な作品だ。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読む。『ライ麦畑でつかまえて』に比べるとやはり訳語が新しい。村上春樹がこの作品からかなりの影響を受けたことがよく分かる。再読だが、今回は『謎ときサリンジャー』に触発されて読んでみた。「キャッチャー」を目指したホールデンが妹フィービーの「警策」の一言によって生と死には「catch」はなく、ただ「meet」しかないことに気づくという解釈だ。なるほど、そのように読むとホールデンが手当り次第まわりの人間を「インチキ野郎」と罵倒しているこの物語が違った様相を帯びてくる。「インチキ」ではないこの生の世界の実相とはなんだろうか?思うに、白血病で死んだ弟アリーはホールデンでもあってもいいわけで、生きているのは弟かもしれない。とすれば、ホールデンは本当は存在しないのかもしれない。不思議な作品だ。
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