Thursday, March 31

『大航海時代の日本人奴隷』


大航海時代は奴隷売買のロマンのかけらもない時代なり

『大航海時代の日本人奴隷』を読んで。

15世紀半ばから17世紀半ばの大航海時代。西欧の商人やキリスト教会の聖職者が世界を股にかけて活躍した時代だ。

日本には、長崎にポルトガル人がやって来て西欧の産物や知識をもたらした。ただ、ヨーロッパ人は文明の果実を与えるために来たのではなく、あくまで商売と布教のために日本にやって来たのである。

その時に日本からおおぜいの人間が奴隷として海外に連れ出されたことはあまり知られていない。

本書にはその状況が淡々と述べられている(原著はポルトガル人の学術書である)が、奴隷にされた当時の日本人のことを考えると不快感を感じずにはいられない。

ヨーロッパ人は、日本人だけでなく、アジア、インド、アフリカなど彼らが訪れた海外の土地から人を集めて奴隷とした。

奴隷は教会で洗礼を受け、本来の名前を奪われてヨーロッパ人に奉仕する奴隷とされて顔や顎に逃亡防止の烙印を押された。

彼らは、主人のために肉体的に奉仕したが、家事や雑務だけでなく、性的な道具にされた女性も当然いたであろう。本当の意味での性奴隷である。

彼らの多くはさらわれたり、売られたり、戦争の捕虜となったりして、ポルトガル商人の手に渡された。ほとんどが「年季奉公」だと思って海外に連れて行かれたようだ。

彼らは年老いて肉体的労働ができなくなった時にやっと「自由民」に戻れた。解放された後、多くは路上の乞食となって惨めな一生を終えたと思われる。

大航海時代の奴隷とはもっぱらヨーロッパ人に奉仕するための元人間であり、ヨーロッパ人以外はすべて可能性として奴隷階級であった。

日本人だけでなく、中国人、朝鮮人、インド人、カフル人と呼ばれたアフリカ人などヨーロッパ人以外のほとんど人々が彼らの奴隷となっていた。

日本が徳川時代の安定した統治機構を持たなければもっと大量の日本人が奴隷の身分となって海外に連れ出されたであろう。その意味では鎖国は正しかったかもしれない。

Wednesday, March 30

ソメイヨシノ


街道をゆく人見上げし桜の木いまは車の出入りの障り


旧甲州街道沿い。マンションの駐車場に立つ桜の古木。ここまでするかというぐらいの掲示。これでは愛でる人もいないだろう。桜も見てもらった方がうれしいのではないか。

Tuesday, March 29

ソメイヨシノ


夜桜の下に座って見上げてる老女の時間今どのあたり?


駅前の桜並木。帰路を急ぐ人たち。その中で樹下の石のベンチに座って桜を見上げている高齢の女性がいる。いつの桜を思い出しているのだろうか。

様々のこと思い出す桜かな

この伝統的フレームから逃れるのは難しい。

Monday, March 28

ツツジ


気の早い花が咲いてるツツジ園まわりのつぼみはまだまだ青いぞ


生産緑地のツツジ園。早くも花を咲かせているツツジ。花にもせっかちなものも気が長いものがあるのだろう。春が来れば夏は遠くない。

Sunday, March 27

セイヨウタンポポ


朝つぼみ割れて中からライオンの歯が飛び出すかタンポポの花


二子玉川の堤。タンポポの花とつぼみ。花は朝咲いて夜は閉じるそうだ。

ダンデライオン(ライオンの歯)と呼ばれるのは花ではなく、そのギザギザの葉らしい。

Saturday, March 26

『美しの首』


猿曳とお姫さまとの道行は雨が止むまで夢覚めるまで


近藤ようこの『美しの首』を読んで。

「美しの首」「雨は降るとも」「安壽と厨子王」「玉鬘」の4篇からなる。いずれも男女の不思議なエロスを描く漫画。

「雨は降るとも」は、戦国の世が終わり太平の世が始まった頃、遊び人の婚約者よりも誠実な猿曳の若者のともへ走るお姫さまの物語。

美しい恋の物語の終わりは見えている。おそらく猿曳は(彼の予想どおりに)「臼を抱えた猿」と同じ運命をたどるのだろう。

雨に降り込められた二人に残酷な別離と死が忍び寄る。

Friday, March 25

三月は

さんがつはこころもゆれてさだまらずしがつはうごくかだっとのごとく

三月は心も揺れて定まらず四月は動くか脱兎のごとく

例年のことだが三月は迷いと変化の月。決まりそうでなかなか決まらない。しかし四月の声を聞くと不思議なほど物事が定まってしまうのだが、今年はどうだろうか。

Thursday, March 24

『人はどう死ぬか』


本当は正しい医者の不養生健康な人コロリと死ねない?


『人はどう死ぬのか』(久坂部羊著)を読んで。

著者は『MR』や『悪医』などの医療小説で有名な小説家であり、長く在宅医療に関わってきた医者でもある。

おそらく普通人の何百倍も人の死を身近で見てきたにちがいない。

著者は、日本人の死についていくつか問題提起している。

たとえば、日本人は死を日常生活から遠ざけてしまったために、実際の死をイメージしにくくなっている。

だから、私たちは死ぬことは知っていても、実際の死がどのようなものかほとんど知らない。

そのために死に対する過剰な不安と幻想にとらわれていると著者は指摘する。

また、日本人の7割が病院で死ぬようになったために、昔ならばすんなり死ねたのに、病院で延命治療を受けてなかなか死ねずに長引く苦痛の中で死んでいかねばならないとも。

つまり、長寿は決して幸運ではなく、長生きすればするほど苦痛や苦悩の時間が増大することになる。

「ピンピンコロリ」は大きな誤解であり、むしろ健康であるほどなかなか死ねないという。かえって不摂生で体を弱らせている人のほうが「コロリ」と死ねる。

上手に死ぬためには、病院に関わりを持たないのが一番だと医者である著者は言っているが、これは例の「がんもどき理論」の近藤誠氏とよく似た主張である。

では、一番好ましい死に方は何か。本書によると、がんで(病院ではなく)在宅で死ぬことだそうだ。

がんの告知を受けたら(年齢にもよるだろうが)「しめた!」と思うべきか。

私にとってはまさに「コペルニクス的転回」の1冊だった。

Wednesday, March 23

ナズナ


別れにも様々ありて年度末ナズナの花見て思案を忘る


年度末、いつものようにいくつもの別れがある。形式的なものもあれば、深刻なものもある。よく通る道なのに今日やっとナズナの花に気づいた。来年にまたこの花々を見たときには今の別れもすっかり忘却の彼方か。

Tuesday, March 22

ホトケノザ


霙からみるみる春の雪となり人も草木もまた縮こまる


今日は真冬の寒さが戻ってきた。都内でも雨がみぞれに、みぞれが雪に変わって道ゆく人も体を縮こめるようにしていた。ホトケノザも寒さに縮みあがっているのだろうか。

Monday, March 21

ハナニラ


道ばたにハナニラの花はびこりて何故かムスカリ負けずに咲けり


ハナニラの花があちこちで咲き始めている。たくましい外来種の1つだが、まわりを見るときまってムスカリの花が咲いている。どうやらこの両者は縄張り争いをしているらしい。

Sunday, March 20

ヨウコウ


桜には願いを託されしものもあり たとえば陽光桜のように


砧公園の近くで満開のヨウコウを見た。調べてみると陽光桜とも呼ばれる桜で、戦後にある人物が作り出した桜だという。

ウィキによると、高岡正明という愛媛の教員だった人が、太平洋戦争後、戦死した生徒たちの冥福を祈って、25年の試行錯誤の後に作り出した交雑種だそうだ。

反戦の願いを込めて作り出された桜といってもいいだろう。かつて日本人が戦った戦争のこと、そして今あるウクライナの戦争のことを考えてしまう。

Saturday, March 19

「ナイフを失われた思い出の中に」


戦争の「ごろつき」どもは正義の名でやりたいほうだい昔も今も


「ナイフを失われた思い出の中に」を読んで。『真実の10メートル手前』の中の連作短編の1つ。

大刀洗万智を訪ねて一人の外国人が日本にやって来る。彼の名前は、ヨヴァノヴィチ、『さよなら妖精』のユーゴスラヴィア人・マーヤの兄である。
 
正しくは、彼は商用で来日するのだが、妹が敬愛していた万智に会うためにわざわざとある地方都市までやって来たのだ。

そこで彼らはある殺人事件に向き合いながら、同時にお互いの辛い過去と生の人間性に向き合うことになる。

ユーゴスラヴィア問題は、『さよなら妖精』では悲劇性を実現するための1つの題材に過ぎないという印象を持ったのだが、そうではないことを作者なりに誠実に示したのがこの作品だったと私は受け取った。

おそらく複雑な歴史を作者なりに整理した結果が、ヨヴァノヴィチの「3人のごろつきどもの縄張り争い」発言だったのであろう。

そして、「1人のごろつき」だけを罰した西側の「公平な報道」に対して根深い不信感と怒りを持ち続けていたヨヴァノヴィチの心を解きほぐしたのが、高校生の時から変わらぬ大刀洗万智の生き方の流儀だった。
 
たとえそれがティーンエージャーの理想だと笑われても、彼女はひとり「純真な者や正直な者、優しい者」が救われる報道を目指す。

これは、他の短編でも共通する特質であり、『王とサーカス』にも引き継がれる青春性の持つ美質である。

戦争には有象無象のごろつきが参集するものだが、今のウクライナの戦争はどうだろうか。「ごろつき」は、はたして1人だけなのだろうか?

そして、その一見「公平な報道」は本当に公平な報道なのだろうか?

Friday, March 18

また冬の

またふゆのさむさがもどるきょうのあめあしもとにちるもくれんのはな

また冬の寒さが戻る今日の雨足元に散る木蓮の花

冷たい雨が降っている。冬の寒さが戻ってきたようだ。体が春に適応しはじていた頃だけに寒さが応える。濡れながら帰る道にはハクモクレンの落花が散らばっている。この雨でさらに落花を急ぐ花もあるのだろうか。

Thursday, March 17

ユキヤナギ


いつのまにかくも咲きたる雪柳つぼみも見ぬまに盛りとなれり


時間があったので出かけた職場近くの公園。ユキヤナギの花が競うように咲いている。いつのまに咲き出したのであろうか。これからこういうサプライズが続きそうだ。

Wednesday, March 16

ツバキ


子どもらが並べしものや落椿 草より咲きたる花のごとくに


子どもたちが落ちているツバキの花を集めたものだろうか。草の上にキレイに並べたところが風流だ。

Tuesday, March 15

コブシ


連れあれば立ち止まれねどもその花の高きにあれば辛夷にあらん


街にはハクモクレンの花が咲き始めている。真っ白な花がよく目立つ。人と歩いているときふと前を見上げるとコブシの花。同時期に咲く白い花なので紛らわしいが、樹高がひとつの着目ポイント。

Monday, March 14

アジサイ


今日見れば驚かさるる紫陽花の新芽はすでに若葉の如く


つい花芽の変化ばかりに目がいってしまうが、この時期は新芽の変化も著しい。アジサイの新芽がこんなに立派になっているとは気づかなかった。三日会わざれば刮目して見るべし、だ。

Sunday, March 13

スイセン


水仙も盛りを過ぎて人の目も桜のつぼみへ移りにけりな



花の少ない季節に目を楽しませてくれたスイセンの花もそろそろ終わろうとしている。今週末にはソメイヨシノの花が咲き出すという。しばらくは人々の目も心も上方の花々に向かうのだろう。

Saturday, March 12

ゆっくりと

ゆっくりとねむれることのしあわせをかみしめおきればくしゃみとまらず

ゆっくりと眠れることの幸せを噛みしめ起きればくしゃみ止まらず

最近睡眠時間が短く寝不足状態が続いたが、今朝は久しぶりにゆっくりと眠れた。やはり健康の大本は睡眠。しかし、気持ちよく起きたら今度は花粉が待っていた。せっかくの好天だが、外に出る気になれない。レイジー・サタデー。

Friday, March 11

ツバキ


ひっそりと植込みの中に椿咲く見れば何やら羞じらうごとく


冬の間あまりツバキに注目することがなかった。朝影の中に園芸種のツバキが目についた。通行人で立ち止まって見る人はいない。もったいない。

Thursday, March 10

サクラ


この駅が生まるる前よりここに立つ桜よ仲間はみな伐られしか


駅のホームに立つ桜の古木。おそらくこの駅が作られる前から立っていた桜だろう。他にも桜の木があったにちがいない。この木が一番立派だから残されたのか、あるいはたまたま残しやすい場所に立っていたのか。いずれにしても、消えた桜の分まで花を咲かせてほしい。

Wednesday, March 9

『羊は安らかに草を食み』


難民は今もどこかを歩みたりかつて我らも満洲逐わる


『羊は安らかに草を食み』(宇佐美まこと著)を読んで。
満洲から命からがら逃げ延びた日本人たちの壮絶な逃避行を描いている。

80年近く前のことだが、その野蛮や残酷を体験し記憶している人もいる。

本書は、認知症にかかった老女の旅を通してその苛酷な現実を追体験する物語だ。

地獄のような死地で苦しんだ人々の中に、もしも自分がいたとしたらどうだろうか。

逃げる自分か、襲われる自分か、殺される自分か、殺す自分か、あるいは奪う自分か。

Tuesday, March 8

ギンヨウアカシア

みもざさくいえでくらせしことありきかわらぬみらいをしんじしころに


ミモザ咲く家で暮らせしことありき変わらぬ未来を信じし頃に

一般的にミモザと呼ばれているのはギンヨウアカシアのこと。花期は3月から5月頃で、春先の気分とよく合致したにぎやかな花を咲かせる。ミモザの花を見かけると明るい未来を信じていた頃のことを思い出す。

Monday, March 7

フキノトウ


フキノトウ花に雄雌があるという最後に綿毛を飛ばすのが雌


仕事の帰り、いつも通る道ばたで見つけたフキノトウ。そこにフキがあったとは気づかなかった。心の目が開いていないと見えるものも見えないんだなあと思った。

Sunday, March 6

木の墓標


かつて木と呼ばれしもののなれの果てその身そのまま墓標となれり


何の木だったのだろうか。たぶん死んだ木。墓場で墓標のように立っている。この場に緑陰を作って墓参の人たちに安らぎの時間を与えていたこともあったろうに。墓石の方もすでに参る人はいない様子。二つながら時間の墓標となっている。

Saturday, March 5

いいことと

いいこととよくないこととがこのじきはさんかんしおんのようにやってくる

いいこととよくないこととがこの時期は三寒四温のようにやって来る

この時期、寒い日と暖かい日が交互にやってくて次第に本格的な春となる。いわゆる三寒四温だ。三月は、何かが終わる時期であり、また始まる時期でもある。これまた三寒四温かもしれない。

Friday, March 4

唐突に

とうとつにおどろかされてきづいたらであったあとですべてがちがう

唐突に驚かされて気づいたら出合った後ですべてが違う

何か思いがけない激変に見舞われたとき、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を思い出す。私たちは、激変との「出合い」を受け止める(キャッチする)ことはできない。ただ出合う(ミートする)だけだ。これがサリンジャーの教えだ。自身が1つの玉だとすれば、気がついたときにはすでに別の玉にぶつかった後で、自分が向かっていた未来の景色はすっかり違ったものになっている。

Thursday, March 3

スダジイ


木の根這う大きな椎の木明日には卒業生らでにぎやかだろう



とある高校。エントランスの広場にある大きな椎の木。まわりは石のベンチで囲まれている。明日は卒業式なので、きっと子どもたちの声でにぎやかになっているだろう。

Wednesday, March 2

ノボロギク


世田谷の畑の脇にノボロギク名を捨て実取れしっかと生きよ


烏山あたりを歩いていると当然畑が現れる。このあたりの原風景なのだろう。囲いの脇からノボロギクがはみ出しているが、この綿毛をボロと見ての命名だという。たしかに花はパッとしないが帰化植物で逞しく生きているようだ。名よりも実を取れ。

Tuesday, March 1

ツワブキ


三月は終わりの季節ツワブキの綿毛も最後の飛び時を待つ


烏山あたり。暗渠が散歩道になっている。歩いているとツワブキの綿毛が目についた。花も終わり綿毛もあらかた飛び去ったのだろうか。春一番で飛んでいくのか、春の雨で落ちてしまうのか。決断のとき。