Thursday, February 23

林試の森の河津桜


そこだけは春の盛りと人集う河津桜の花咲く森に



林試の森は何度も出かけた公園だが、河津桜の名所とは知らなかった。

この時期に初めて歩いてみて河津桜の花と出逢うことができた。

花との出逢いもまた一期一会。

枯木ばかりの森の中を歩いていると、花咲く広場のような場所があって花見の人々がいい感じで集まっていた。場所柄外国人も多い。

落ちた花びらを拾ってポリ袋に集めている子どももいた。花びら狩り?

Tuesday, February 21

『黒百合』


少年の少女に挿頭せし白百合は見えぬが故に今なほ白し


『黒百合』(多重斗志之)を読んで。

ミステリー文芸というべき作品。

14歳の3人の少年少女(一彦、進、香)が避暑地六甲山で過ごしたひと夏の体験が中心的なストーリー。

それに彼らの親たちの物語が重なって最後にひとつのミステリーに収斂していくという展開。

ストーリーは割愛するが、ミステリーとして見たときに、最後の種明かしで明らかになった相田真千子と倉沢日登美の関係など、ツジツマ合わせ的な不自然さが残る。

2人はお互いを認識しているはずだが過去は精算して何事もなく暮らしているのだろうか?

また真千子の「性癖」や行動様式は戦後激変したのであろうか?

いずれもなんらかの説明がほしいところ(ヒントのようなものを私が見落としているだけかもしれないが)。

それ以外にも貴代司の脅迫と殺人などちょっとご都合主義的すぎるのではないか。それならば「おばさん」の仮面をかぶった真千子の凄みにも触れるべきでは?

むしろ最後の殺人はなしにして真千子のキャラ変と見える変化の「真相」を最後に謎解きするような展開もあったのでは?

浅木と真千子に「君の名は」のような波乱万丈があったと匂わせるという終わり方もあったのでは?

いろいろと難癖をつけているようで恐縮だが、読者が書かれていない物語を空想してはどうかということかもしれない。

いずれにしても余韻の残るすぐれた作品であることは確か。

今更ながらだが、著者の失踪は残念でならない。

Friday, February 17

白梅の花


白梅の花々しばらく見比べて清楚な一花を「推し花」とする



十数年ぶり(もっと前?)に蛇崩川緑道(三軒茶屋〜中目黒)を歩いた。まだ花のない季節で白梅が一番目立っていた。

以前は佐藤佐太郎の歌に感化されて歩いたのだが、今回すっかり忘れて彼の歌碑も見落としてしまった。

晩年の佐藤佐太郎が散歩したときにはまだ蛇崩川は開渠で流れていた。

川沿いの道を歩いたのだろうが、たぶん土の道でのどかな風景だったのだろう。

左岸が丘になっていてそこに上る坂もわりと急で足弱の老人にはきつかったのではないか。

最晩年の歌に、

近く死ぬわれかと思ふ時のあり蛇崩坂を歩みゐるとき

というのがあるが、彼の散歩のお供は「死」だったのかもしれない。

蛇崩坂という名前の坂はないようだ。

Wednesday, February 8

『普通という異常』


いいねいいね、いいねの数字が僕たちの栄養となる似非メタバース


普通という異常』(兼本浩祐)を読んで。参考:『光のとこにいてね』(一穂ミチ)

本書で「いじわるコミュニケーション(いじコミ)」という言葉を知った。著者の造語かもしれないが、なかなかよくできた言葉だと思う。

いじコミは、「適度な量のいじわるをお互いの社会的階層(子ども社会のなかでの大げさにいえばスクールカーストのようなもの)や個人的力量に応じて小出しにジャブ打ちしながら、自分の子ども社会における立ち位置を決めていく技術」とある。

良し悪しはともかく、いじコミは子ども社会でも大人の社会でも欠くことのできない対人スキルとなっている。直接的な暴力を避けて社会的な序列や秩序を維持していくという文化的な「暴力装置」という側面もある。

多くの場合、いじコミは正当な口実のもとに無自覚に行われていて、ドラマのような直接的ないじわるは少ないのではないか。

大人(子どもではなおさら)の社会で円滑に生きていくためには、このいじコミに習熟する必要があるのだが、その能力がきわめて低い人たちも存在する。

ADHD(注意欠陥・多動性障害)やASD(自閉症スペクトラム)と呼ばれる人たちだが、それらを症状ではなく傾向と考えるのが本書の立場。だれでもADHD性やASD性を持っている。

彼らは、往々にして微細ないじコミを認知できないので、コミュニケーションを取る側はさらに強烈ないじコミを仕掛けるか、完全に黙殺するという形になりがちだ。

世間は、いじコミ力のある多数の人たちを健常発達(定形発達)と見るわけだが、その健常発達も行き過ぎるとひとつの「症状」を呈することがあると本書は警告する。

たとえば、健常発達の人たちは、あまりにもまわりの「いいね」に依存しているために、往々にして自分が何をしたいのかわからなくなる。「いいね」に押しつぶされてしまう人も出てくる。


最近、『光のとこにいてね』というガールズラブの小説を読んだのだが、母親の「いいね」の支配下に生きる結珠という女性が出てくる。 

結珠は、小さい頃から母親の期待を先取りして優等生のいい子を生きることしかできない。彼女は母親の「いいね」で出来ている。

小説では、結珠がその「毒親」の軛から自由になっていく過程が、運命的(本人たちがそう信じている)な恋愛の進展と相まって描かれていて興味深い。しかし現実はもっとマイルドで強固で、無自覚的なもの。

この小説の人物設定がわかりやすいので、登場人物の誰にどういう感情を抱くかというところで、自分の「無自覚」に気づくことができるのではないだろうか。

最後の章で、健常発達の人たちが陥る生きにくさや病的な問題にどう対処すればいいかということに触れられている。

最終章は様々なことが書かれているが、要は内なる「ノマド的なADHD的心性」を活用してはどうかということ。今・ここで生じる感覚的な実感の手応えによって進路を決めていく「ノマド的」な生き方だ。

『光のとこにいてね』では、結珠と惹かれ合う夏遠の生き方がまさにそれで、夏遠は他人(自分の子も含めて)からどう思われるかではなく、自分がしたいと思うことに忠実に生きている。

本書には「母親との決別」という項目があるが、まさに小説の結珠は、夏遠のノマド的心性を自らの中に取り込むことによって母親との決別を果たしたといえる。