Wednesday, February 8

『普通という異常』


いいねいいね、いいねの数字が僕たちの栄養となる似非メタバース


普通という異常』(兼本浩祐)を読んで。参考:『光のとこにいてね』(一穂ミチ)

本書で「いじわるコミュニケーション(いじコミ)」という言葉を知った。著者の造語かもしれないが、なかなかよくできた言葉だと思う。

いじコミは、「適度な量のいじわるをお互いの社会的階層(子ども社会のなかでの大げさにいえばスクールカーストのようなもの)や個人的力量に応じて小出しにジャブ打ちしながら、自分の子ども社会における立ち位置を決めていく技術」とある。

良し悪しはともかく、いじコミは子ども社会でも大人の社会でも欠くことのできない対人スキルとなっている。直接的な暴力を避けて社会的な序列や秩序を維持していくという文化的な「暴力装置」という側面もある。

多くの場合、いじコミは正当な口実のもとに無自覚に行われていて、ドラマのような直接的ないじわるは少ないのではないか。

大人(子どもではなおさら)の社会で円滑に生きていくためには、このいじコミに習熟する必要があるのだが、その能力がきわめて低い人たちも存在する。

ADHD(注意欠陥・多動性障害)やASD(自閉症スペクトラム)と呼ばれる人たちだが、それらを症状ではなく傾向と考えるのが本書の立場。だれでもADHD性やASD性を持っている。

彼らは、往々にして微細ないじコミを認知できないので、コミュニケーションを取る側はさらに強烈ないじコミを仕掛けるか、完全に黙殺するという形になりがちだ。

世間は、いじコミ力のある多数の人たちを健常発達(定形発達)と見るわけだが、その健常発達も行き過ぎるとひとつの「症状」を呈することがあると本書は警告する。

たとえば、健常発達の人たちは、あまりにもまわりの「いいね」に依存しているために、往々にして自分が何をしたいのかわからなくなる。「いいね」に押しつぶされてしまう人も出てくる。


最近、『光のとこにいてね』というガールズラブの小説を読んだのだが、母親の「いいね」の支配下に生きる結珠という女性が出てくる。 

結珠は、小さい頃から母親の期待を先取りして優等生のいい子を生きることしかできない。彼女は母親の「いいね」で出来ている。

小説では、結珠がその「毒親」の軛から自由になっていく過程が、運命的(本人たちがそう信じている)な恋愛の進展と相まって描かれていて興味深い。しかし現実はもっとマイルドで強固で、無自覚的なもの。

この小説の人物設定がわかりやすいので、登場人物の誰にどういう感情を抱くかというところで、自分の「無自覚」に気づくことができるのではないだろうか。

最後の章で、健常発達の人たちが陥る生きにくさや病的な問題にどう対処すればいいかということに触れられている。

最終章は様々なことが書かれているが、要は内なる「ノマド的なADHD的心性」を活用してはどうかということ。今・ここで生じる感覚的な実感の手応えによって進路を決めていく「ノマド的」な生き方だ。

『光のとこにいてね』では、結珠と惹かれ合う夏遠の生き方がまさにそれで、夏遠は他人(自分の子も含めて)からどう思われるかではなく、自分がしたいと思うことに忠実に生きている。

本書には「母親との決別」という項目があるが、まさに小説の結珠は、夏遠のノマド的心性を自らの中に取り込むことによって母親との決別を果たしたといえる。