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Sunday, April 9

『半七捕物帳 年代版1』(お文の魂)


半七が思案しながら歩く江戸気づけばそこは東京の街


『半七捕物帳 年代版1』を読んで。

「半七捕物帳」を読む愉しさは人それぞれだろうが、私はとりわけその地理に関心を持つ。もちろん、そのストーリーの面白さがあっての上での話だが。

作者の岡本綺堂が参考にしたのが「江戸切絵図」(「切絵図」)。この地図は概念図であって、実際の地理を知るには明治になって作成された「東京図測量原図」(「東京図」)や「迅速測図原図」(「迅速図」)等と比較してみなければならない。

年代的には20〜30年経っているが、地理的にはそれほど大きな変化はなかったように思う。

さて、この作品集は年代順の構成になっているのだが、「お文の魂」は半七がはじめて登場する作品なので例外的に冒頭に置かれている。

舞台となっているのは小石川西江戸川端(現在の文京区水道1、2丁目あたり)にある小幡伊織という旗本の屋敷。

そこにお文という幽霊が出るという話から本作は始まるのだが、その屋敷には百坪ほどの古池があり、池浚い(掻掘)をしている。

東京図を見ると確かにこのあたりには池が多い。後背の高台からの湧水もあったようだ。低湿地だったのだろう。幽霊には好適?の地。

半七たちは、音羽→安藤坂→本郷→池の端と歩いて目的地の下谷の浄円寺に至ったと書いてある。本の注釈によると浄円寺は明治初年まであったそうで、切絵図にもその名がある。作者もチェックしてその名を作中に入れたのであろう。

結局、黒幕は浄円寺の生臭坊主だったのだが、伊織の妻がまったくの無実だったかは読者の想像に委ねられている(たぶんよろめきかかったのであろうが、綺堂はそんな野暮な詮索はしない)

切絵図と東京図を見比べて、彼らはこんなコースを歩いたのではないだろうかと想像した。

音羽→神田上水沿いの道(明治には暗渠化)→安藤坂(上る)→伝通院前右折→善光寺坂(下る)→小石川(谷端川とも言う、越える)→東大下水(白山通り、越える)→新坂(上る)→中山道・千川上水(本郷通り、越える)→水戸殿と加賀中納言殿の屋敷の間(切絵図には道はない、現在の東大工学部と農学部の間、言問通り)→暗闇坂(下る)→浄円寺(現存する宗賢寺の隣にあった)

いたるところに「水」があるのは興味深い。そのうち実踏してみたい。

Tuesday, February 21

『黒百合』


少年の少女に挿頭せし白百合は見えぬが故に今なほ白し


『黒百合』(多重斗志之)を読んで。

ミステリー文芸というべき作品。

14歳の3人の少年少女(一彦、進、香)が避暑地六甲山で過ごしたひと夏の体験が中心的なストーリー。

それに彼らの親たちの物語が重なって最後にひとつのミステリーに収斂していくという展開。

ストーリーは割愛するが、ミステリーとして見たときに、最後の種明かしで明らかになった相田真千子と倉沢日登美の関係など、ツジツマ合わせ的な不自然さが残る。

2人はお互いを認識しているはずだが過去は精算して何事もなく暮らしているのだろうか?

また真千子の「性癖」や行動様式は戦後激変したのであろうか?

いずれもなんらかの説明がほしいところ(ヒントのようなものを私が見落としているだけかもしれないが)。

それ以外にも貴代司の脅迫と殺人などちょっとご都合主義的すぎるのではないか。それならば「おばさん」の仮面をかぶった真千子の凄みにも触れるべきでは?

むしろ最後の殺人はなしにして真千子のキャラ変と見える変化の「真相」を最後に謎解きするような展開もあったのでは?

浅木と真千子に「君の名は」のような波乱万丈があったと匂わせるという終わり方もあったのでは?

いろいろと難癖をつけているようで恐縮だが、読者が書かれていない物語を空想してはどうかということかもしれない。

いずれにしても余韻の残るすぐれた作品であることは確か。

今更ながらだが、著者の失踪は残念でならない。

Wednesday, February 8

『普通という異常』


いいねいいね、いいねの数字が僕たちの栄養となる似非メタバース


普通という異常』(兼本浩祐)を読んで。参考:『光のとこにいてね』(一穂ミチ)

本書で「いじわるコミュニケーション(いじコミ)」という言葉を知った。著者の造語かもしれないが、なかなかよくできた言葉だと思う。

いじコミは、「適度な量のいじわるをお互いの社会的階層(子ども社会のなかでの大げさにいえばスクールカーストのようなもの)や個人的力量に応じて小出しにジャブ打ちしながら、自分の子ども社会における立ち位置を決めていく技術」とある。

良し悪しはともかく、いじコミは子ども社会でも大人の社会でも欠くことのできない対人スキルとなっている。直接的な暴力を避けて社会的な序列や秩序を維持していくという文化的な「暴力装置」という側面もある。

多くの場合、いじコミは正当な口実のもとに無自覚に行われていて、ドラマのような直接的ないじわるは少ないのではないか。

大人(子どもではなおさら)の社会で円滑に生きていくためには、このいじコミに習熟する必要があるのだが、その能力がきわめて低い人たちも存在する。

ADHD(注意欠陥・多動性障害)やASD(自閉症スペクトラム)と呼ばれる人たちだが、それらを症状ではなく傾向と考えるのが本書の立場。だれでもADHD性やASD性を持っている。

彼らは、往々にして微細ないじコミを認知できないので、コミュニケーションを取る側はさらに強烈ないじコミを仕掛けるか、完全に黙殺するという形になりがちだ。

世間は、いじコミ力のある多数の人たちを健常発達(定形発達)と見るわけだが、その健常発達も行き過ぎるとひとつの「症状」を呈することがあると本書は警告する。

たとえば、健常発達の人たちは、あまりにもまわりの「いいね」に依存しているために、往々にして自分が何をしたいのかわからなくなる。「いいね」に押しつぶされてしまう人も出てくる。


最近、『光のとこにいてね』というガールズラブの小説を読んだのだが、母親の「いいね」の支配下に生きる結珠という女性が出てくる。 

結珠は、小さい頃から母親の期待を先取りして優等生のいい子を生きることしかできない。彼女は母親の「いいね」で出来ている。

小説では、結珠がその「毒親」の軛から自由になっていく過程が、運命的(本人たちがそう信じている)な恋愛の進展と相まって描かれていて興味深い。しかし現実はもっとマイルドで強固で、無自覚的なもの。

この小説の人物設定がわかりやすいので、登場人物の誰にどういう感情を抱くかというところで、自分の「無自覚」に気づくことができるのではないだろうか。

最後の章で、健常発達の人たちが陥る生きにくさや病的な問題にどう対処すればいいかということに触れられている。

最終章は様々なことが書かれているが、要は内なる「ノマド的なADHD的心性」を活用してはどうかということ。今・ここで生じる感覚的な実感の手応えによって進路を決めていく「ノマド的」な生き方だ。

『光のとこにいてね』では、結珠と惹かれ合う夏遠の生き方がまさにそれで、夏遠は他人(自分の子も含めて)からどう思われるかではなく、自分がしたいと思うことに忠実に生きている。

本書には「母親との決別」という項目があるが、まさに小説の結珠は、夏遠のノマド的心性を自らの中に取り込むことによって母親との決別を果たしたといえる。

Wednesday, October 19

『心はこうして創られる』


唯脳が即興的に創り出す物語それが心の正体?


『心はこうして創られる』(ニック・チェイター)を読んで。

「マインド・イズ・フラット」。つまり、私たちの心は深みのある実体ではなく、心は脳による即興的な創作だという。

脳は私たちを欺いて、これが現実だという実感を与え続けている。

私たちは、この脳の働きのお陰で一貫したリアリティの中で生きることができている。


ずいぶん前のことだが、手の感覚を失ったことがあった。

手の触覚がないので、たとえばカバンの中のものを手だけで探せない状態だった。

困ったのはコップやグラスなどを手でつかめないこと。

物理的に握りしめることはできるが、紙コップなら握り潰してしまうし、グラスなら滑って手から落ちてしまう。

仕方なくコップは両手で下からつつみこむようにして持っていた。

ホットコーヒーなどは取っ手を持つと滑ってしまうし、下から持つと熱いので持つのに苦労した。

しばらくして変な感覚が生まれてきた。

それは持っているコップがヌルヌルしているという感覚だ。

もちろんコップは濡れていないし、ヌルヌルもしてもいない。

いくら手の触覚がないだけと思っても感覚的には物のほうがヌルヌルしているのだ。

コップだけでなく手に触れるすべてのものがヌルヌルしている。

つまり、私の脳は手に触覚がないのではなく、周りの世界がヌルヌルしているという幻覚を私に与えたのだ。

ヌルヌルしているから手で持とうとすると滑ってしまうという帳尻合わせだろう。

私がいくらそのヌルヌルは間違っていると理性的に考えても、そのヌルヌル感を正すことはできなかった。

幸い手の感覚は戻ってきて、そのヌルヌルは消えてしまった。

こんな奇妙な体験があるので、この著者の主張は、間違っていないように感じてしまう。


Saturday, October 8

『おいしいごはんが食べられますように』


十三夜もらった団子をこっそりと暗がりに捨て踏み潰す奴

『おいしいごはんが食べられますように』(高瀬隼子)を読んで。

多くの読者がこの小説を読んでもやもや感が残ったのではないか。

そのもやもや感の正体は何なのだろうか。気になるところ。

芦川さんの作ったお菓子を表面的にはおいしいおいしいと褒めながら陰で握り潰し捨てている仮面野郎の二谷か?

ひたすら善人キャラを演じながらしっかりと仕事の手を抜いて上司の覚えめでたく(結果的には)最後には敵を追い出して職場に居残り続ける芦川さんか?

あるいはお互いに本当の姿を見せないままに仲のいい恋人として付き合ってやがて結婚もしそうな二谷と芦川さんの不可解な関係か?

読者をスッキリとさせない終わり方が芥川賞的なのかも。

それから文学とは関係ないが、ペイ・フォー・パフォーマンスという考え方が浸透してくると、芦川さんのような人も「働かないおじさん」と同じようにあぶり出されてくる日は近いのかもしれない。

同僚が、先輩だから、高齢だから、いい人だから、病気持ちだから、家族を支えなければならないから、等々で、仕方ないと思っていた偏った仕事分担だが「働かない」という点では同じ。

本当のもやもやはこっちの方かな?

Friday, October 7

『カモメの日の読書』


カモメ来よ本を開けば純白のページの海に一青沙鴎

『カモメの日の読書』(小津夜景)を読んで。

『いつかたこぶねになる日』と同じく漢詩エッセーとでも言うべき作品。こちらの方が先の出版。

各篇ごとに漢詩をめぐる作者の漢詩的日常が描かれている。フランスでのノマドのような暮らしぶりが小気味よい。

作者は『フラワーズ・カンフー』で田中裕明賞を受賞している俳人だが、その出発点に漢詩の世界が大いに関わっていたことは興味深い。

いずれも自由自在なタッチで書かれていて愉しいエッセーなのだが、「水のささやきを聞いた夜」と「言葉にならないさよなら」で交わされる頼山陽と愛人の江馬細香の漢詩「相聞歌」のように漢詩人たちの人生を垣間見せるものもある。

驚いたのは、作者が子どものときに本を声に出して読むと、母親がリコーダーでただちにそれを曲に変える遊びをしていたという話。

母から娘への芸術的「ギフテッド」。この人の文才はお母さんの魔法で生まれたのかなと思ってしまった。

Thursday, September 22

『あくてえ』


ばばあとかじじいとかいう悪態は天に唾吐くように吐こうぜ



『あくてえ』(山下紘加)を読んで。

文学的な創作だとは分かっているが、どうしても現実に引き寄せて考えたくなる作品。

こんな身勝手な老婆(ゆめは心の中ではばばあと呼んでいる)もきいちゃん(ゆめの母親)のような人のいい女性も現実にはあまりいないだろうと思う。

しかし案外きいちゃんのように困った事態を後先のことも考えずに引き受けてしまう人はいるのではないか。

地獄への道は善意が敷き詰められているというが、きいちゃんのような善意の人がこの世の地獄も作り出しているのかもしれない。

きいちゃんが出戻ってきた老婆(彼女にとっては元義母でしかないのだが、老婆が勝手に娘だと主張している)を知らないと拒絶すれば、ゆめも母と娘の穏やかな暮らしを送れたはず。

小説の最後では、甲斐性のない、すぐに面倒から逃げ出す父親(離婚して別の家庭を持っている)は借金を抱えて老婆(本当は自分が面倒を見なければいけない母親)の生活費も払えなくなっている。

懸命に介護をしてきたきいちゃんも過労で寝込んでしまった。

このわがまま放題に暮らしてきた老婆をいったい誰が面倒を見るというのだろうか。

ゆめしかいないのではないか。20歳になったばかりで、やっと派遣社員から正社員になれた彼女のささやかな幸福はどうなってしまうのか。

この先この老婆が何年生きるか分からないが、百歳(現在90歳)ぐらい平気で突破しそうな勢い。

老婆にとって孫の悪態などなんてことない。談話の一種ぐらいとでも思っているのだろう。

何だかんだ言ってきいちゃんとゆめを手球に取ってうまく世話をさせているとしか思えない。

読めば読むほどゆめと一緒に老婆に悪態をつきたくなってくる。

ふつうの小説だと、この老婆が急にぽっくり逝って、最後は悲喜交交の大団円となるのだが、作者はそんな微温的な「小説的結末」を認めたくなかったのだろう。

(でも芥川賞は取れたかもしれないね)

Sunday, September 18

『くるまの娘』


子は親を選べず未完の親のもと子どもは未完の子となる連鎖


『くるまの娘』(宇佐見りん)を読んで。

正直、読んでいて辛くて途中で読むのをやめようと思った作品。

主人公のかんこは親から肉体的・精神的に暴力をふるわれている高校生。学校には保健室登校している。

兄と弟はそんな親に見切りをつけてすでに家を出ているが、かんこはかろうじて家にとどまっている。

かんこに暴力をふるう父親は、自分が受けた虐待体験を子どもたちに擬態語(ドカーン、ボコーン、エーンなど)でしか語れない。

しかし小説の最後で彼は自分の傷をかんこに語りながら「なんで生きてきちゃったんだろうな」とつぶやく。

運転席にいた父親が激情してアクセルを踏み込めば自分たちも近くにいる歩行者も危険だということをかんこは感じる。

しかし父親は一線を越えることはなかった。

「自己責任論」が覆い尽くす日本の社会。<生きるか・死ぬか>の最後の一線で踏みとどまっている人がたくさんいるにちがいない。

最近、ニュースになる「最強の人」たちもその一線で躊躇ったときに彼(女)らの言葉を聞いてくれる人(家族や友人など)がいればその人生も変わったかもしれない。

アベマテレビで、そういう最後の一線で迷う人たちの電話相談をしている女性がこんな話をしていた。

「女性の相談者は、自分のことを語っているうちに落ち着いてくる人が多いが、男性は<原因>が見つからないと怒りを収められない(人が多い)」と。

かんこの父親は、母親の死後に彼女がきょうだいの中で自分のアルバムだけ作っていなかったことを知ってショックを受ける。

彼は、母親のえこひいきにあらためて絶望するわけだが、それは誰からもいじめられたことがないと豪語する彼が誰にも見せたくなかった心の傷だったのだろう。

それを娘にきちんと言葉で語れたところに彼自身の歪んだ人生の「原因」を見つけたかもしれない。

そしてそれを引き出したのが、かんこの、<遠からず・近からず>の「くるま暮らし」だったのではないか。

「くるま」が家族の絆であり柵であったとするならば、かんこは最後までそこにとどまって、それをひとり守ろうとしたという読み方もできる。

こういった共依存関係はできるだけ早く清算して、それぞれが自分の行動に責任を持って自立した大人にならなくてはいけない、というのが世間の正解かもしれないが…

Wednesday, July 13

『方言萌え!?』


いつの日か関西弁が関西語になったら怖い国家の悪夢


『方言萌え!?』(田中ゆかり著)を読んで。

『関西弁入門』という本がある。言語としての「関西弁」を学習する入門書なのだが、これが「関西語」となるとちょっと怖い。

ある言葉がひとつの言語だと考えるときどうしても「国家意識」とリンクしてしまう。

かつて頼朝が「東国」を意識したときに、同時に自分たちの言語(京都人から忌避されていた)も意識したにちがいない。

旧ドイツのように、何らかの政治的に力学によって東と西が分かれたとき、急速に両者は別の文化を進展させていくだろう。

その時には「関西弁」は、「関西語」あるいは「上方語」となって別の言語の道をたどるのではないか(たとえば、セルビア語とクロアチア語のように)。

本書はまったくそういった本ではないが、「方言」があくまで日本語の多様性の一部として理解され、楽しまれている現代は幸せだと思った。

Sunday, July 10

『長生き地獄』

長生きが一体何の罪なのか、確かに「地獄」の沙汰は金次第


『長生き地獄』(森永卓郎著)を読んで。

何冊か類書を見かけるが、この人はこんな本ばかり書いているようだ。

今から30年後には夫婦2人世帯の年金が月額13万円まで下がると著者は警告する。

月13万円では、ふつうに生活することはできないだろうから、もし現実にそうなったとしたら「地獄」かもしれない。

ただ、これでは日本国は成り立たないだろう。政府が何もしないとは思えない。

本書のあとには、そういった未来にどう対処するかという指南や著者自身の生活が書かれている。

有名人である著者のライフ・スタイルを真似ても仕方ないが、何らかのヒントはありそうだ。

「長寿はリスク」だということを再認識する本ではある。

Saturday, July 2

『修羅の都』


空白の三年間の頼朝を週刊文春スクープしてよ


『修羅の都』(伊東潤著)を読んで。


「吾妻鏡」には、頼朝が亡くなる建久10年(1199)1月13日の前の3年ほどの記録が何故が抜けている。

他の日記などの記録には、落馬で死んだとか、「飲水病」だったとか、「祟り」だとか書かれており、今ひとつはっきりしない。

この小説では、「老耄」つまり認知症で正常な判断力を失った頼朝を鎌倉幕府を救うために義時と政子が共謀して毒殺したことになっている。

飲水病(糖尿病)で脳梗塞を起こしたりして認知機能が損なわれることがあるようなので、認知障害はありえないことではないかもしれない。

『頼朝と義時』(呉座勇一著)では、鎌倉後期に編纂された「吾妻鏡」には、時の実権者である北条氏にとって都合の悪い事実は隠蔽されたのではないかと推測している。

つまり、頼朝が跡継ぎたる頼家のために行ったであろう権力継承の施策を意図的に消し去ったのではないかと。

たしかに北条氏にしてみると、頼朝の遺志に反して、頼家を殺し幕府を乗っ取ったことを隠したかったのだろう。

この小説では跡継ぎの頼家が暗愚な青年として描かれているが、そう単純な話ではないことは『頼朝と義時』を読むとよく分かる。

要は、頼家・比企氏一族VS北条氏一族の激しい権力闘争の結果、前者が後者に粛清されたのであろう。歴史は、勝者によって作られる。

頼朝は、稲毛重成が亡妻の追善供養のために行なった橋供養の帰りに落馬する。亡妻は政子の妹である。

案外、重成が出家したのもそうした北条氏の血みどろの闘争に巻き込まれたくなかったかもしれない。

Monday, June 27

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』


生命に目的ありや、あるならば宇宙が己に気づくことかも



『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(アンディ・ウィアー)を読んで。

最高のSFエンタテインメント小説。とにかく面白いの一言。

地球の危機を救うために人類の代表が冒険の旅に出るというテッパンのストーリーだが、主人公の置かれた状況がユニーク。

まず主人公がある奇妙な部屋で目覚めるところから物語が始まる。覚醒した彼のそばには二人の死体が横たわっている。

なぜか彼には豊富な科学的知識と経験がある。自分が置かれている状況を科学的に分析して、宇宙船の中にいることがわかる。

死んでいる二人はこの宇宙船のクルーで、彼らが生きていた頃の親しい交流も思い出す。宇宙船の中の様々な問題に対処しながら彼は過去のことを少しずつ思い出していく。

彼は、地球の危機を救う手がかりを求めて、地球から1.9光年離れたタウ・セチ星系に13年かけてたどり着いたのだった・・・。

やがて主人公は自分の名前(グレース)やミッションを思い出すのだが、危機に瀕していたのは地球だけではなく、同じように危機に直面して宇宙船をタウ・セチに送り出している知的生命体があったのだ。

その異星人とのコンタクトが面白い。異星文明とのコンタクトというと、『三体』の「暗黒森林理論」を思い出すが、ここではまったく正反対の展開となる。つまり、信頼と協調のストーリーだ。

地球人グレースと異星人ロッキー(グレースが勝手に命名)とのバディ・ストーリーが楽しい。

幾多の困難が二人の信頼と友情を強化するという、これまたテッパンの物語なので、人類(いや知的生命体)なら感動しないわけにはいかない。

物語の根底には「パンスペルミア説」があるのだが、はやぶさ2が持ち帰ったサンプルの中にアミノ酸があることが発見されたりと、現在の方向としては間違っていないのでは。

生命は、思ったよりも普遍的な現象なのかもしれない。そして案外「心」もそうかも。

Saturday, June 11

『いつかたこぶねになる日』


たこぶねの残せし貝の麗しく男ら悲しく空蝉に懸く


『いつかたこぶねになる日』(小津夜景著)を読んで。

漢詩の本は何冊か読んだがこんな本は初めて、もちろんいい意味で。

漢詩というと、伝統的に訓読を前提として読み味わってきた。作る人は、面倒な平仄のルールなどを覚えて作らねばならない。

明治期ならおおぜいの日本人が漢詩を作っていたのだろうが、今日では作る人は少ないだろう。短歌や俳句などに比べると、はっきり言ってマイナーな文芸である。

その漢詩を俳人である著者が、他の詩歌と分け隔てなく味わい、自作の訳詩を添えて解説したのが本書。

題名にある「たこぶね」は、きれいな貝殻を作るタコのことで、メスだけが貝を作り、やがてその貝を捨て去るという。

それを女性の自由な生き方の象徴ととらえたのが、アン・モロウ・リンドバーグだ。彼女の著作『海からの贈物』の1章に「たこぶね」がある。

著者は南仏に暮らしているそうだが、まさに「たこぶね」的人生を実践する人と言っていいだろう。

著者が、蘇軾の「春夜」につけた訳詩がすばらしい。

はるのよる

はるのよの ひとときは 
かけねなき ゆめごこち
春宵一刻値千金

きよらかに かおるはな
ほんのりと かげるつき
花有清香月有陰

うたげなす たかどのの
ほそぼそと ねはとどき
歌管楼台声細細

なかにわの ぶらんこに
しんしんと よはふける
鞦韆院落夜沈沈

(『いつかたこぶねになる日』(小津夜景)より引用)

Saturday, May 21

『パラソルでパラシュート』


パラソルでそこから飛んだら死んじゃうと思えばそこが人生の崖


『パラソルでパラシュート』(一穂ミチ著)を読んで。

受付嬢の美雨は、大阪城ホールのライブでひょんなきっかけからお笑い芸人の亨と知り合うことになる。

亨は30歳で、19歳のときに北海道から大阪にやって来て養成所で同期の弓彦と「安全ピン」というコンビを組んでいる。

美雨は29歳。非正規社員の受付嬢は更新は30歳までと(暗黙のルールで)決まっていた。

30歳がいわば崖っぷちで、そこから社会生活に安全に着地するための「パラシュート」が結婚だった。

「いつの時代の話?」と思う人もいるかもしれないが、そういう社会通念はいまだに呪いのように日本社会を覆っているのかもしれない。

亨やその芸人仲間と親しくなった美雨は、そういう「パラシュート」的人生から次第に外れていく。

この世の中には、たとえささやかでも生きて楽しめ、助け合える場所があるはずだという、大人のメルヘンのような展開。

パラソルで崖から飛び降りればただではすまないが、今いる場所からちょっと飛び上がってみることはできる。

美雨が頭にバンドエイドを貼ったように自分の凝り固まったスタイルを崩すことができれば、大きな問題も違って見えてくるかもしれない。

個人の深刻な問題を救えるのは笑いだけだというようなセリフがどこかにあったような気がするが。

それから言葉とアイデンティティという問題も考えさせられた。

北海道から逃げてきた亨は、自分の過去のアイデンティティを捨てるために大阪弁の芸人の世界に入る。

亨がステージで演じる「夏子」は標準語をしゃべるので、言葉から見ると地の自分の言葉に近い世界の住人であろう。

亨は、一度は捨てたアイデンティティを演じることで相対化しようとしているとも言える。

それは最終的に義母との関係を「お笑い化」することによって、亨が過去の呪縛から自由になるというエピソードではっきりする。

では美雨の場合はどうだろうか?

高校2年生のときに、東京から大阪に引っ越してきた彼女の言語的アイデンティティは微妙だ。

ただ、まったく周りの言葉に影響を受けずに標準語の世界にとどまる美雨には、ある種の頑なさを感じる。

絶対に自分のアイデンティティを変えたくないという頑固さと重苦しさが美雨にはある。その「緊縛の苦しみ」を暗示するのが最初の出血事件であり、そこで見つけたのが亨のような融通無碍のアイデンティティだったのではないだろうか。

もちろん自由自在に見えた亨の生き方が、実は美雨以上に過去の呪縛に囚われた緊縛の人生だったことは言うまでもない。

最後に亨の緊縛を解くために、美雨が激しくも完璧な大阪弁で亨に詰め寄ったのは、美雨のアイデンティティがしなやかさと自由を獲得したという意味で象徴的なエピソードとなっている。

著者は、ネット情報によると大阪出身らしいので、大阪弁と標準語のビミョーな関係に敏感なのであろう。

言語的アイデンティティという意味でも興味深い作品となっている。

Wednesday, May 4

『歴史のIF(もしも)』


人生にIFがあればと思うときIFの自分はもうそこいる

『歴史のIF(もしも)』(本郷和人著)を読んで。

「歴史のIF」は禁じ手だが、歴史学者があえて考察したのが本書。

たとえば、石橋山の戦いで頼朝が殺されていたら歴史はどうなるか、といった具合。

歴史の場合は、「システムの力」のようなものが働いて、中心となる人物が死んでもその代わりの人物が現れてくるということらしい。

頼朝がいなくなっても「ニア頼朝」が現れると。

では、個人の人生はどうだろうか?

思うに、頼朝がいなくても「ニア頼朝」が現れるように、私がいなくても「ニア私」がいるのではないか。

私に似た私が私のポジションを占めている。何だか聞いたような話だなあと思ったら『残月記』にそんな話があった。

Sunday, May 1

『北条氏の時代』


陰謀論あるわけないと言う人が身近な陰謀には与する

『北条氏の時代』(本郷和人著)を読んで。

本書を読むと北条氏の創成期のリーダーの一人義時は卓越した陰謀家だったことが分かる。

著者が書いているように、「陰謀力」も「実力」のひとつの要素。リーダーの力の源泉の一つだ。

「鎌倉殿の13人」を観ているが、だんだんとドラマが陰謀まみれになってきて面白い。陰謀の一つもこなせない武士のリーダーなどありえない。

小栗旬の義時もどんどん陰謀に手を汚して大泉洋の頼朝に負けないぐらいの汚れたリーダーを演じてほしいものだ。

鎌倉時代は、いわば陰謀だらけの時代。そして陰謀の本家本元が北条氏だったということもできる。

どの時代にも「陰謀」はあるが、「陰謀論」は単なる物語にすぎない?

力の争いがあるところに陰謀あり。

Friday, April 29

『物語 ウクライナの歴史』


人も国も物語られて自らの使命に気づき苦難を生きる


『物語 ウクライナの歴史』(黒川祐次著)を読んで。(以下敬称略)

本書を読むとプーチンもゼレンスキーもそれぞれのロシアとウクライナの「物語」を背負って対峙していることが分かる。

かつてウクライナの地に繁栄した「キエフ・ルーシ公国」の正統な後継者はロシアだとロシア帝国時代もソ連時代も言われてきた。

歴史上たび重なるウクライナの地での独立運動はすべてロシアを始めとする近隣の大勢力の力で封じられてきた。

ソ連が崩壊したときにやっとウクライナは独立を手に入れた。かつて「ヨーロッパの義父」とまで言われていた「キエフ・ルーシ公国」。その伝統からすればウクライナの人々の目は自然と西のヨーロッパに向く。

その「ウクライナ人の物語」を絶対に認めないのが、プーチンを始めとする「ロシア人の物語」だろう。

単なる地政学的な対立ではなく、「大きな物語」の結末をかけた戦いが、深いところで行われているように見える。

ところで、ゼレンスキーはユダヤ人で、もともとウクライナ東部の出身で、母語はロシア語だという。

ウクライナ人・ユダヤ人・ロシア人の関係も一筋縄でいかない「物語」があるはずだ。

我々日本人には読みきれない「物語」。

Thursday, March 31

『大航海時代の日本人奴隷』


大航海時代は奴隷売買のロマンのかけらもない時代なり

『大航海時代の日本人奴隷』を読んで。

15世紀半ばから17世紀半ばの大航海時代。西欧の商人やキリスト教会の聖職者が世界を股にかけて活躍した時代だ。

日本には、長崎にポルトガル人がやって来て西欧の産物や知識をもたらした。ただ、ヨーロッパ人は文明の果実を与えるために来たのではなく、あくまで商売と布教のために日本にやって来たのである。

その時に日本からおおぜいの人間が奴隷として海外に連れ出されたことはあまり知られていない。

本書にはその状況が淡々と述べられている(原著はポルトガル人の学術書である)が、奴隷にされた当時の日本人のことを考えると不快感を感じずにはいられない。

ヨーロッパ人は、日本人だけでなく、アジア、インド、アフリカなど彼らが訪れた海外の土地から人を集めて奴隷とした。

奴隷は教会で洗礼を受け、本来の名前を奪われてヨーロッパ人に奉仕する奴隷とされて顔や顎に逃亡防止の烙印を押された。

彼らは、主人のために肉体的に奉仕したが、家事や雑務だけでなく、性的な道具にされた女性も当然いたであろう。本当の意味での性奴隷である。

彼らの多くはさらわれたり、売られたり、戦争の捕虜となったりして、ポルトガル商人の手に渡された。ほとんどが「年季奉公」だと思って海外に連れて行かれたようだ。

彼らは年老いて肉体的労働ができなくなった時にやっと「自由民」に戻れた。解放された後、多くは路上の乞食となって惨めな一生を終えたと思われる。

大航海時代の奴隷とはもっぱらヨーロッパ人に奉仕するための元人間であり、ヨーロッパ人以外はすべて可能性として奴隷階級であった。

日本人だけでなく、中国人、朝鮮人、インド人、カフル人と呼ばれたアフリカ人などヨーロッパ人以外のほとんど人々が彼らの奴隷となっていた。

日本が徳川時代の安定した統治機構を持たなければもっと大量の日本人が奴隷の身分となって海外に連れ出されたであろう。その意味では鎖国は正しかったかもしれない。

Saturday, March 19

「ナイフを失われた思い出の中に」


戦争の「ごろつき」どもは正義の名でやりたいほうだい昔も今も


「ナイフを失われた思い出の中に」を読んで。『真実の10メートル手前』の中の連作短編の1つ。

大刀洗万智を訪ねて一人の外国人が日本にやって来る。彼の名前は、ヨヴァノヴィチ、『さよなら妖精』のユーゴスラヴィア人・マーヤの兄である。
 
正しくは、彼は商用で来日するのだが、妹が敬愛していた万智に会うためにわざわざとある地方都市までやって来たのだ。

そこで彼らはある殺人事件に向き合いながら、同時にお互いの辛い過去と生の人間性に向き合うことになる。

ユーゴスラヴィア問題は、『さよなら妖精』では悲劇性を実現するための1つの題材に過ぎないという印象を持ったのだが、そうではないことを作者なりに誠実に示したのがこの作品だったと私は受け取った。

おそらく複雑な歴史を作者なりに整理した結果が、ヨヴァノヴィチの「3人のごろつきどもの縄張り争い」発言だったのであろう。

そして、「1人のごろつき」だけを罰した西側の「公平な報道」に対して根深い不信感と怒りを持ち続けていたヨヴァノヴィチの心を解きほぐしたのが、高校生の時から変わらぬ大刀洗万智の生き方の流儀だった。
 
たとえそれがティーンエージャーの理想だと笑われても、彼女はひとり「純真な者や正直な者、優しい者」が救われる報道を目指す。

これは、他の短編でも共通する特質であり、『王とサーカス』にも引き継がれる青春性の持つ美質である。

戦争には有象無象のごろつきが参集するものだが、今のウクライナの戦争はどうだろうか。「ごろつき」は、はたして1人だけなのだろうか?

そして、その一見「公平な報道」は本当に公平な報道なのだろうか?

Wednesday, March 9

『羊は安らかに草を食み』


難民は今もどこかを歩みたりかつて我らも満洲逐わる


『羊は安らかに草を食み』(宇佐美まこと著)を読んで。
満洲から命からがら逃げ延びた日本人たちの壮絶な逃避行を描いている。

80年近く前のことだが、その野蛮や残酷を体験し記憶している人もいる。

本書は、認知症にかかった老女の旅を通してその苛酷な現実を追体験する物語だ。

地獄のような死地で苦しんだ人々の中に、もしも自分がいたとしたらどうだろうか。

逃げる自分か、襲われる自分か、殺される自分か、殺す自分か、あるいは奪う自分か。