Saturday, July 2

『修羅の都』


空白の三年間の頼朝を週刊文春スクープしてよ


『修羅の都』(伊東潤著)を読んで。


「吾妻鏡」には、頼朝が亡くなる建久10年(1199)1月13日の前の3年ほどの記録が何故が抜けている。

他の日記などの記録には、落馬で死んだとか、「飲水病」だったとか、「祟り」だとか書かれており、今ひとつはっきりしない。

この小説では、「老耄」つまり認知症で正常な判断力を失った頼朝を鎌倉幕府を救うために義時と政子が共謀して毒殺したことになっている。

飲水病(糖尿病)で脳梗塞を起こしたりして認知機能が損なわれることがあるようなので、認知障害はありえないことではないかもしれない。

『頼朝と義時』(呉座勇一著)では、鎌倉後期に編纂された「吾妻鏡」には、時の実権者である北条氏にとって都合の悪い事実は隠蔽されたのではないかと推測している。

つまり、頼朝が跡継ぎたる頼家のために行ったであろう権力継承の施策を意図的に消し去ったのではないかと。

たしかに北条氏にしてみると、頼朝の遺志に反して、頼家を殺し幕府を乗っ取ったことを隠したかったのだろう。

この小説では跡継ぎの頼家が暗愚な青年として描かれているが、そう単純な話ではないことは『頼朝と義時』を読むとよく分かる。

要は、頼家・比企氏一族VS北条氏一族の激しい権力闘争の結果、前者が後者に粛清されたのであろう。歴史は、勝者によって作られる。

頼朝は、稲毛重成が亡妻の追善供養のために行なった橋供養の帰りに落馬する。亡妻は政子の妹である。

案外、重成が出家したのもそうした北条氏の血みどろの闘争に巻き込まれたくなかったかもしれない。