Sunday, April 16

半七と江戸01(お文の魂)西江戸川町


元治元(1864)年3月末の話、「小幡の屋敷の八重桜にも青い葉がもう目立っていた」とある。陰暦3月は、現在の4月末から5月初め。

幽霊が出るという小幡伊織の屋敷は西江戸川町にあった。そこから音羽、そして小幡家の菩提寺である池の端の浄円寺が舞台となっている。

西江戸川町は現在の水道1、2丁目あたり。当時は武家屋敷が並んでいた。

小日向台下には神田上水が流れていた(地図では8がある道路)が、半七たちもこの上水脇の道を歩いて音羽から池の端へ向かったかもしれない。上水は明治初期の東京図ではすでに暗渠になっている。

カーソルの西江戸川町あたりは池が多いことが分かる。台地からの湧水があったのだろう。切絵図では一帯は武家地となっている。

東京図には製紙会社の名前もあり、現在でもトッパンなど印刷関係の会社がある。大きなマンションが目につく。

神田上水の南側の一帯は切絵図では「御持組大縄地」という拝領地で、小さな家が立ち並んでいる。

地図右下で神田上水とクロスするところが安藤坂。当時はかなり坂で、上りやすいようにクランク状になっている。

坂を上って進むと伝通院に突き当たる。右折して善光寺坂を下り、小石川(谷端川)、東大下水(白山通り)を越えて新坂を上っていったのだろうか。

新坂が当時もあったのかはよく分からない。「大江戸今昔めぐり」によると、阿部伊勢守の屋敷内?を抜けられるように見えるのだがどうだろうか。東京図では道路が整備されている途中のようだ。


本郷通りから暗闇坂を下って池の端の手前に浄円寺がある。その名は切絵図には載っているが迅速図はそれらしき寺はない。明治初年に廃寺になったようだ。

小説では生臭坊主がいて、小幡の若い妻をたらしこもうと悪巧みしているので、さすがに執筆当時に実在する寺ではまずいだろう。

農学部があったところはもと水戸藩中屋敷、本郷キャンパス(医学部がある)あたりはもと加賀藩上屋敷だったところ。

暗闇坂はその間を通る道。江戸時代は樹木の生い茂った裏道だったようだ。

こちらも「大江戸今昔めぐり」によると現在の暗闇坂は水戸屋敷内にあり、明治期に通されたものらしい。加賀藩屋敷内?に池の端に抜けられそうな道があるが、実際に抜けられたのかは分からない。

長方形の区画は、東京共同射的会社の射的場(射撃場)。弥生美術館や竹下夢二美術館がある。現在の町の区画にその面影が残っている。

実際に歩いてみたが(寄り道しながらだったが)1時間半以上かかった。アップダウンもあり、けっこう疲れた。健脚だった江戸の人には大した道ではなかったかもしれないが…。


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