Wednesday, April 19

半七と江戸02(石燈籠)日本橋大横町



こちらは若き半七が功名を上げた事件。時は天保(1841)12年の12月の初め。半七はまだ19歳の駆け出しの頃で、彼の生い立ちについても書かれている。

半七は日本橋の木綿店の通い番頭のせがれで、父親に死に別れて母親は後家となって半七とその妹を育て上げたとある。半七は道楽肌とあるがその生育歴と無縁ではないだろう。

半七は家を飛び出して神田三河町の吉五郎という岡っ引きの子分になり、その才覚を認められて吉五郎亡き後その跡目を継ぐ。

半七がかって知ったる日本橋横町(現在の日本橋本町四丁目あたり)の小間物屋・菊屋で事件は起こった。

横町は切絵図では大横町で、東堀留川にかかる道浄橋の先から竜閑川(途中で埋め立てられている)の手前の横町らしい。


一人娘が浅草の観音様へお詣りに出かけて姿を消したという相談を受けて半七は(親分の指揮のもと)捜査に乗り出す。

しばらくして娘は帰ってきたのだが、その娘がなんと母親の女主人を殺して再び姿を消す。半七は女軽業師春風小柳が怪しいと目星をつける。

小柳が出る両国広小路の見世物小屋をのぞいた半七はその足で向う両国の駒止橋(駒留橋)に向かう。

駒止橋は両国橋北側の入堀にかかっていた小橋で東京図には載っているが、その後すぐに埋め立てられた。


駒止橋あたりに小柳とその若いツバメ・金次が住んでいる。犯行を白状する金次と半七のやりとりも味がある。

捕まった小柳は身繕いをしたいと家に戻る途中で両国橋から大川に身を投げてしまう。小柳の切ない女心が巧みに描かれている。

地図で分かるように当時の両国橋は現在よりも少し下流にかかっていたが、明治37年に鉄橋としてかけ替えられている。

寒々とした冬の大川の情景描写がとてもよい。御船蔵の上を雁の群れが鳴きながら飛んでいくという描写などは明治になっても実際に見られた情景だったのだろう。

御船蔵は両国橋よりも下流左岸(竪川から新大橋の間)にあった幕府の艦船の格納庫。


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