Sunday, April 23

半七と江戸04(唐人飴)青山御熊野横丁


「唐人飴」

青山久保町の熊野権現に通じる横町は御熊野横町と呼ばれていたが、そこで2年連続で被害者が片腕を切り落とされるという刃傷沙汰があり、渡辺綱の故事にあやかって羅生門横町と呼ばれるようになった。

上図の十字カーソルあたりに熊野権現(熊野神社)があり、横町の道はその左脇の坂(勢揃坂)を下って渋谷川に向かっていた。

上図では地図のつなぎ目でずれていて見えないが、道は北上・左折して仙寿院右下の橋に出る。

右下の通りの最初の分岐点が現在の外苑前。右に向かうのが現在の青山通り。左の北上する道が六道の辻に向かう道だが、明治の終わりに青山練兵場ができて途絶した。現在は国立競技場に向かうスタジアム通りとなっている。

嘉永4年(1851)4月のある日、その横町でまた片腕が発見される。その腕は唐人衣装の筒袖をつけていたので、このあたりに商いに来る唐人飴の男ではないかと近所の人は言い合った。

縁あって神田三河町の半七は、その事件に関わるようになる。その年の9月に「青山の仇討」事件も起こり、半七たちは2つの事件を同時並行で捜査することになる。

片腕の第一発見者である常磐津の師匠・文字吉が住んでいたのがその羅生門横町にある実相寺の門前町。

「今昔大江戸めぐり」に実相寺の名がある。「同町」とあるのが門前町。その前の通りが羅生門横町で、その左先に熊野権現がある。実相寺も熊野権現も現存する。

上図の「青山五十人町」の通りが現在の青山通り。ほとんどが武家屋敷で町屋はほとんどなく、明治の半七老人も言うように江戸の場末だった。

梅窓院の隣の鳳閣寺では、坂東小三という女役者の宮芝居を打っている。小三は青山通り沿いにある善光寺の門前町に住んでいる。

上図の十字カーソルの場所が善光寺で、信濃の善光寺の別院である。

青山通りを南西に下っていくと渋谷川とぶつかるが、そのあたりが現在の渋谷駅。畑と田んぼの風景だった。

渋谷駅以北の川は現在は暗渠となっているがバブル期までは開渠で、明治の初めまで川沿いに田畑が広がっていた。原宿村という名も見える。

半七は、その善光寺で一心に祈っている市川照之助という若い役者を見かける。

照之助は、小三の女弟子の小三津といい仲になっている。祈っているのは、兄貴の岩蔵の復讐をするためで、その復讐の相手が原宿の角兵衛というやくざな男。

悶着の元は、女芝居に照之助と岩蔵という男役者が隠れて出演したことで、そこからこじれにこじれて男の二本の腕が切り落とされるという異常な事件となったことが明らかになる。

さらに、文字吉が小三津をたぶらかしたあげく痴情のもつれから殺めていたことが明らかになる。文字吉は現在でいうところのレズビアンで、弟子はすべて女だった。

唐人飴の男は、事件とは何の関係のない放蕩息子で、親の勘当を解くために趣味も兼ねて唐人飴屋をしていたのだった。


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