Tuesday, April 11

モッコウバラの花


この花に香りがないのはよかったねモッコウバラに覆われた家


モッコウバラの花が咲き出している。

散歩の途中で見かけたモッコウバラの家。
香りがすごいんだろうなと思ったが、ネットで調べると八重の黄色い花には香りがないそうだ。


Monday, April 10

ツルニチニチソウの花


道端のツルニチニチソウの花の中コソコソ隠れておったか小蜘蛛


猪方用水の跡を歩いていると道端にツルニチニチソウが繁茂していた。近寄って紫の花を見て写真を撮った。

後からよく見てみると、蕊だと思ったのは小さな蜘蛛だった。

頭のあたりにあるのはなんだろうか?

多摩川の堰。風が強かった。

Sunday, April 9

『半七捕物帳 年代版1』(お文の魂)


半七が思案しながら歩く江戸気づけばそこは東京の街


『半七捕物帳 年代版1』を読んで。

「半七捕物帳」を読む愉しさは人それぞれだろうが、私はとりわけその地理に関心を持つ。もちろん、そのストーリーの面白さがあっての上での話だが。

作者の岡本綺堂が参考にしたのが「江戸切絵図」(「切絵図」)。この地図は概念図であって、実際の地理を知るには明治になって作成された「東京図測量原図」(「東京図」)や「迅速測図原図」(「迅速図」)等と比較してみなければならない。

年代的には20〜30年経っているが、地理的にはそれほど大きな変化はなかったように思う。

さて、この作品集は年代順の構成になっているのだが、「お文の魂」は半七がはじめて登場する作品なので例外的に冒頭に置かれている。

舞台となっているのは小石川西江戸川端(現在の文京区水道1、2丁目あたり)にある小幡伊織という旗本の屋敷。

そこにお文という幽霊が出るという話から本作は始まるのだが、その屋敷には百坪ほどの古池があり、池浚い(掻掘)をしている。

東京図を見ると確かにこのあたりには池が多い。後背の高台からの湧水もあったようだ。低湿地だったのだろう。幽霊には好適?の地。

半七たちは、音羽→安藤坂→本郷→池の端と歩いて目的地の下谷の浄円寺に至ったと書いてある。本の注釈によると浄円寺は明治初年まであったそうで、切絵図にもその名がある。作者もチェックしてその名を作中に入れたのであろう。

結局、黒幕は浄円寺の生臭坊主だったのだが、伊織の妻がまったくの無実だったかは読者の想像に委ねられている(たぶんよろめきかかったのであろうが、綺堂はそんな野暮な詮索はしない)

切絵図と東京図を見比べて、彼らはこんなコースを歩いたのではないだろうかと想像した。

音羽→神田上水沿いの道(明治には暗渠化)→安藤坂(上る)→伝通院前右折→善光寺坂(下る)→小石川(谷端川とも言う、越える)→東大下水(白山通り、越える)→新坂(上る)→中山道・千川上水(本郷通り、越える)→水戸殿と加賀中納言殿の屋敷の間(切絵図には道はない、現在の東大工学部と農学部の間、言問通り)→暗闇坂(下る)→浄円寺(現存する宗賢寺の隣にあった)

いたるところに「水」があるのは興味深い。そのうち実踏してみたい。

Wednesday, April 5

ミツバツツジの花


鬱屈の人よ檻から出てごらんミツバツツジがもう咲いてるよ


戸越公園で見かけたミツバツツジの花。このあたりは江戸時代は、細川家下屋敷があったところ。

桜も葉桜となり、花吹雪の中を子どもたちが遊んでいる。

そんな中にも鬱屈の人はいる。まるで心の檻の中に閉じ込められているように…。

Tuesday, April 4

ヤマブキの花


崖下の暗渠の小道にヤマブキの花咲くしっかり余所見をせよと



水窪川の暗渠道。池袋から都電の線路を越えて江戸川橋まで。ビル群や新旧の住宅の間を縫うように小道が続く。

高低差のある崖の下を通ることが多い。崖上の丘に上がるには何段もある階段を上らなければならない。

道の両側は住宅が密集しているので急に長い階段が現れてくる。

Saturday, March 18

マボケの花


遠目には清楚な花に心せよ寄れば刺されるマボケの棘に


茂みの中に白地に薄いピンクの花が咲いていた。バラかと思って近づいてみると鋭い棘に刺された。キレイな花には棘がある。

マボケの花。バラ科。カリンのような果実ができるという。その頃にまた来てみたい(棘に用心して)。

Friday, March 17

『シンプルで合理的な人生設計』


探しても見つけられない青い鳥は心の中の物語に棲む


『シンプルで合理的な人生設計』(橘玲)を読んで。

例によって橘玲さんの文章は身も蓋もない。本書も多くの人にとっては「不都合な真実」かもしれない。

「幸福」を、金融資本、人的資本、社会資本の総体として定義したときに、その3つから隔絶して生きている人たちにとって本書は面白くも何ともない本となるだろう。

貯金や資産はない、いい仕事にもありつけない、恋人も友だちもいない、そんな人がこの本を読んでも絶望や怒りしか湧いてこないのでないか。

何かの「陰謀」で自分からそれらが奪われていると憎悪を膨らませるか(手製銃の暗殺者のように)、「親ガチャ」思考で親が悪いと諦めるしかないのでは…。

成功するための資質(知能や運動能力、あるいは性格なども)は、かなり遺伝で決まっているという。だから能力や才能のある人は一時の不遇があってもいずれは頭角を現して成功の道へ進む(途中で投げ出さない限り)。

つまり、親から資産や人的資本を譲り受けるか、遺伝的な「ギフト」をもらっていない多くの人間にとって成功への道は厳しいということになる。

幸せは、お金ではない、恋人や友だちに恵まれてなくても、一人ぼっちでも自分のしたいように生きるのが幸せです、という幸福論もあるだろうが、本書はそういった弥縫の考え方は取らない。

一昔前なら、俺には金融資本も人的資本もない(貯金なしで低賃金)が、大事な家族がある(社会資本がある)という幸福論もあったのだろうが、今は低収入だと結婚も難しい。

つまり、幸福な人は、その3つの資本すべてを手に入れて、不幸な人はすべてから遠ざけられている(というか、それが「幸福」と「不幸」の定義となっている)。

実態的には、金融資本→人的資本→社会資本というベクトルがあるように思う(親が裕福かどうかが大きな決め手)。

この、ある意味当たり前の現実の中で、私が本書から得た教訓?は、

よく眠る、散歩する、好きな仕事を死ぬまで続ける、親密な人間関係を維持する、投資するならインデックスファンド…

ぐらいだろうか…。シンプルではある。