Saturday, March 19

「ナイフを失われた思い出の中に」


戦争の「ごろつき」どもは正義の名でやりたいほうだい昔も今も


「ナイフを失われた思い出の中に」を読んで。『真実の10メートル手前』の中の連作短編の1つ。

大刀洗万智を訪ねて一人の外国人が日本にやって来る。彼の名前は、ヨヴァノヴィチ、『さよなら妖精』のユーゴスラヴィア人・マーヤの兄である。
 
正しくは、彼は商用で来日するのだが、妹が敬愛していた万智に会うためにわざわざとある地方都市までやって来たのだ。

そこで彼らはある殺人事件に向き合いながら、同時にお互いの辛い過去と生の人間性に向き合うことになる。

ユーゴスラヴィア問題は、『さよなら妖精』では悲劇性を実現するための1つの題材に過ぎないという印象を持ったのだが、そうではないことを作者なりに誠実に示したのがこの作品だったと私は受け取った。

おそらく複雑な歴史を作者なりに整理した結果が、ヨヴァノヴィチの「3人のごろつきどもの縄張り争い」発言だったのであろう。

そして、「1人のごろつき」だけを罰した西側の「公平な報道」に対して根深い不信感と怒りを持ち続けていたヨヴァノヴィチの心を解きほぐしたのが、高校生の時から変わらぬ大刀洗万智の生き方の流儀だった。
 
たとえそれがティーンエージャーの理想だと笑われても、彼女はひとり「純真な者や正直な者、優しい者」が救われる報道を目指す。

これは、他の短編でも共通する特質であり、『王とサーカス』にも引き継がれる青春性の持つ美質である。

戦争には有象無象のごろつきが参集するものだが、今のウクライナの戦争はどうだろうか。「ごろつき」は、はたして1人だけなのだろうか?

そして、その一見「公平な報道」は本当に公平な報道なのだろうか?