いつの日か死にたい辛いと思ったらソーニャの手話を思い出そうか
「ドライブ・マイ・カー」を読んで。
映画の「ドライブ・マイ・カー」を観て、小説を読み返してみた。原作とはずいぶん違った作品にメタモルフォーゼされていたが、どちらも嫌いではない。
小説では主人公の家福がワーニャ伯父さんなら、ドライバーのみさきがソーニャだ。彼女の言葉には癒やしの力がある。
しかし映画ではむしろ芝居の中でソーニャ役を演じる韓国人女性の手話の方に言葉以上の説得力を感じた。なぜだろうか。
「ドライブ・マイ・カー」は、短編集『女のいない男たち』に収録されているが、短編集を貫くテーマがこの題名ということになる。
「女のいない男たち」とは、「女に去られた(そしてその不在に苦しむ)男たち」という意味だろう。
小説と映画では妻との関係は微妙に異なるが、家福は妻が他の男性と性的関係を持っていることを知っていて、それを妻に問いただせないままに妻に先立たれてしまう。
二人の間は夫婦として満ち足りたものだったはずなのに、なぜ妻は他の男(しかも自分よりも魅力がないと思われる)と性的関係を重ねていたのか、どうしても家福は理解できず、妻の死後もずっと苦しみ続けている。
小説のみさきは、家福を慰めるようにこう言う。
「そういうのって、病みたいなものなんです、家福さん。考えたってどうなるものではありません。・・・
こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」
※芝居でソーニャがワーニャ伯父さんを慰める言葉はこちら↓