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Wednesday, March 15

ソメイヨシノの花


こんな偶然あるかと思った昨春の出逢いは事無くまた桜咲く


3月末から4月の初めにかけては毎年様々の別れと出会いがある。

歳を取れば取るほどそれらは淡白となっていくのだが、それでも心が波立つときもある。

心が波立ってもすぐに波は凪いでしまってそれっきりというのが寂しい…。


Saturday, August 6

オニユリ


草むらに虫かと思ったがオニユリのむかごだと言うグーグルレンズ



整体の帰り道。駅の近くの草むらで見つけた。

昔だと何だろうで終わったのが、今はグーグルレンズというツールですぐに調べられる。

どうやらオニユリのむかごらしい。立ち止まってしばらくネット検索。

便利な時代になった。

Thursday, July 7

ノブドウ


花を見てヤブガラシかなと思ったが実がありやはりノブドウらしい


ヤブガラシかなと思って見たが、実がついている。ふつうのヤブガラシは実をつけない。葉の形も違うのでノブドウだと思う。

Saturday, June 4

ノビル


久我山の玉川上水沿い歩く 何の花かと思えばノビル


今日は、久我山ホタル祭。3年ぶりの開催だという。知人に教えてもらって来てみた。

夕方前から玉川上水沿いの道を歩いていたらきれいな花を見つけた。まわりの葉っぱに惑わされたが、ノビルの花だった。

ホタルは神田川沿いで見たが、遠くの小さな光の点滅。でも、おおぜいの人たちとその明滅を今か今かと待つ気分は悪くなったかな。

Saturday, May 21

『パラソルでパラシュート』


パラソルでそこから飛んだら死んじゃうと思えばそこが人生の崖


『パラソルでパラシュート』(一穂ミチ著)を読んで。

受付嬢の美雨は、大阪城ホールのライブでひょんなきっかけからお笑い芸人の亨と知り合うことになる。

亨は30歳で、19歳のときに北海道から大阪にやって来て養成所で同期の弓彦と「安全ピン」というコンビを組んでいる。

美雨は29歳。非正規社員の受付嬢は更新は30歳までと(暗黙のルールで)決まっていた。

30歳がいわば崖っぷちで、そこから社会生活に安全に着地するための「パラシュート」が結婚だった。

「いつの時代の話?」と思う人もいるかもしれないが、そういう社会通念はいまだに呪いのように日本社会を覆っているのかもしれない。

亨やその芸人仲間と親しくなった美雨は、そういう「パラシュート」的人生から次第に外れていく。

この世の中には、たとえささやかでも生きて楽しめ、助け合える場所があるはずだという、大人のメルヘンのような展開。

パラソルで崖から飛び降りればただではすまないが、今いる場所からちょっと飛び上がってみることはできる。

美雨が頭にバンドエイドを貼ったように自分の凝り固まったスタイルを崩すことができれば、大きな問題も違って見えてくるかもしれない。

個人の深刻な問題を救えるのは笑いだけだというようなセリフがどこかにあったような気がするが。

それから言葉とアイデンティティという問題も考えさせられた。

北海道から逃げてきた亨は、自分の過去のアイデンティティを捨てるために大阪弁の芸人の世界に入る。

亨がステージで演じる「夏子」は標準語をしゃべるので、言葉から見ると地の自分の言葉に近い世界の住人であろう。

亨は、一度は捨てたアイデンティティを演じることで相対化しようとしているとも言える。

それは最終的に義母との関係を「お笑い化」することによって、亨が過去の呪縛から自由になるというエピソードではっきりする。

では美雨の場合はどうだろうか?

高校2年生のときに、東京から大阪に引っ越してきた彼女の言語的アイデンティティは微妙だ。

ただ、まったく周りの言葉に影響を受けずに標準語の世界にとどまる美雨には、ある種の頑なさを感じる。

絶対に自分のアイデンティティを変えたくないという頑固さと重苦しさが美雨にはある。その「緊縛の苦しみ」を暗示するのが最初の出血事件であり、そこで見つけたのが亨のような融通無碍のアイデンティティだったのではないだろうか。

もちろん自由自在に見えた亨の生き方が、実は美雨以上に過去の呪縛に囚われた緊縛の人生だったことは言うまでもない。

最後に亨の緊縛を解くために、美雨が激しくも完璧な大阪弁で亨に詰め寄ったのは、美雨のアイデンティティがしなやかさと自由を獲得したという意味で象徴的なエピソードとなっている。

著者は、ネット情報によると大阪出身らしいので、大阪弁と標準語のビミョーな関係に敏感なのであろう。

言語的アイデンティティという意味でも興味深い作品となっている。

Wednesday, May 4

『歴史のIF(もしも)』


人生にIFがあればと思うときIFの自分はもうそこいる

『歴史のIF(もしも)』(本郷和人著)を読んで。

「歴史のIF」は禁じ手だが、歴史学者があえて考察したのが本書。

たとえば、石橋山の戦いで頼朝が殺されていたら歴史はどうなるか、といった具合。

歴史の場合は、「システムの力」のようなものが働いて、中心となる人物が死んでもその代わりの人物が現れてくるということらしい。

頼朝がいなくなっても「ニア頼朝」が現れると。

では、個人の人生はどうだろうか?

思うに、頼朝がいなくても「ニア頼朝」が現れるように、私がいなくても「ニア私」がいるのではないか。

私に似た私が私のポジションを占めている。何だか聞いたような話だなあと思ったら『残月記』にそんな話があった。

Monday, April 18

コデマリ


なるようになると思ってぼんやりとコデマリの花など見て帰る


様々のことがペンディング状態。昔なら今すぐ決着をつけたいとあがいたものだが、最近は「なるようになる」と思えるようになった。自分ができることはそれほどないということ。

諦めたとき物事が明らかになる。

Monday, April 11

シャクナゲ


シャクナゲの花は確かにゴージャスだが花芯の模様がちょい怪しい


たまに立ち寄る屋敷林の中、シャクナゲの花が満開だった。豪華な感じの花だが、じっくり花芯を見てみると怪しい気配。

Friday, February 25

「ドライブ・マイ・カー」


いつの日か死にたい辛いと思ったらソーニャの手話を思い出そうか



「ドライブ・マイ・カー」を読んで。

映画の「ドライブ・マイ・カー」を観て、小説を読み返してみた。原作とはずいぶん違った作品にメタモルフォーゼされていたが、どちらも嫌いではない。

小説では主人公の家福がワーニャ伯父さんなら、ドライバーのみさきがソーニャだ。彼女の言葉には癒やしの力がある。

しかし映画ではむしろ芝居の中でソーニャ役を演じる韓国人女性の手話の方に言葉以上の説得力を感じた。なぜだろうか。

「ドライブ・マイ・カー」は、短編集『女のいない男たち』に収録されているが、短編集を貫くテーマがこの題名ということになる。

「女のいない男たち」とは、「女に去られた(そしてその不在に苦しむ)男たち」という意味だろう。

小説と映画では妻との関係は微妙に異なるが、家福は妻が他の男性と性的関係を持っていることを知っていて、それを妻に問いただせないままに妻に先立たれてしまう。

二人の間は夫婦として満ち足りたものだったはずなのに、なぜ妻は他の男(しかも自分よりも魅力がないと思われる)と性的関係を重ねていたのか、どうしても家福は理解できず、妻の死後もずっと苦しみ続けている。

小説のみさきは、家福を慰めるようにこう言う。

「そういうのって、病みたいなものなんです、家福さん。考えたってどうなるものではありません。・・・
こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです」

※芝居でソーニャがワーニャ伯父さんを慰める言葉はこちら↓

Monday, February 7

ミツマタ


ミツマタのつぼみが枝のあちこちに垂れてもふもふ思わず撫でる


ミツマタのつぼみが充実している。その灰白色に黄色みがさして開花が近いことを告げている。もふもふしたつぼみに触ってみると子どもの頭を撫でるような気分になる。もうすぐだよ。

Sunday, January 23

つかまへて


つかまへてやらうとおもふなくるものもじぶんとおもつてただであふのみ

捕まへてやらうと思ふな来るものも自分と思つてただ出合ふのみ

『謎ときサリンジャー』を読んで。『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンは、遊ぶ子どもたちが落ちないように捕まえてやろうと思った。それは落ちる自分を捕まえてほしいという気持ちの裏返しでもあった。捕まえる方と捕まえられる方という二分法自体が不本意な生き方であり、交換可能な両者が「出合う」ことこそが人の本意である、と解釈したがどうか。

Sunday, November 28

えきまへの


えきまへのいちやうなみきのみきなぜかおほくはおなじむきにかたむく

駅前のイチョウ並木の幹なぜか多くは同じ向きに傾く

見慣れた駅前のイチョウ並木。ふと見ると多くの幹が同じ方向に傾いているのに気づいた。日当たり?風向き?あるいはイチョウの勝手?


かくさたとへきよこうであるとおもつてもからだはきよこうのゆめからさめず

格差たとへ虚構であると思つても身体は虚構の夢から醒めず

『格差という虚構』読了。いくら格差が虚構だと言われてもその「虚構の夢」から醒めるのは容易ではない。それはある種の悟りのようなもの。人が格差から本当に解放されるのは、死の時か。