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Wednesday, October 19

『心はこうして創られる』


唯脳が即興的に創り出す物語それが心の正体?


『心はこうして創られる』(ニック・チェイター)を読んで。

「マインド・イズ・フラット」。つまり、私たちの心は深みのある実体ではなく、心は脳による即興的な創作だという。

脳は私たちを欺いて、これが現実だという実感を与え続けている。

私たちは、この脳の働きのお陰で一貫したリアリティの中で生きることができている。


ずいぶん前のことだが、手の感覚を失ったことがあった。

手の触覚がないので、たとえばカバンの中のものを手だけで探せない状態だった。

困ったのはコップやグラスなどを手でつかめないこと。

物理的に握りしめることはできるが、紙コップなら握り潰してしまうし、グラスなら滑って手から落ちてしまう。

仕方なくコップは両手で下からつつみこむようにして持っていた。

ホットコーヒーなどは取っ手を持つと滑ってしまうし、下から持つと熱いので持つのに苦労した。

しばらくして変な感覚が生まれてきた。

それは持っているコップがヌルヌルしているという感覚だ。

もちろんコップは濡れていないし、ヌルヌルもしてもいない。

いくら手の触覚がないだけと思っても感覚的には物のほうがヌルヌルしているのだ。

コップだけでなく手に触れるすべてのものがヌルヌルしている。

つまり、私の脳は手に触覚がないのではなく、周りの世界がヌルヌルしているという幻覚を私に与えたのだ。

ヌルヌルしているから手で持とうとすると滑ってしまうという帳尻合わせだろう。

私がいくらそのヌルヌルは間違っていると理性的に考えても、そのヌルヌル感を正すことはできなかった。

幸い手の感覚は戻ってきて、そのヌルヌルは消えてしまった。

こんな奇妙な体験があるので、この著者の主張は、間違っていないように感じてしまう。


Thursday, September 22

『あくてえ』


ばばあとかじじいとかいう悪態は天に唾吐くように吐こうぜ



『あくてえ』(山下紘加)を読んで。

文学的な創作だとは分かっているが、どうしても現実に引き寄せて考えたくなる作品。

こんな身勝手な老婆(ゆめは心の中ではばばあと呼んでいる)もきいちゃん(ゆめの母親)のような人のいい女性も現実にはあまりいないだろうと思う。

しかし案外きいちゃんのように困った事態を後先のことも考えずに引き受けてしまう人はいるのではないか。

地獄への道は善意が敷き詰められているというが、きいちゃんのような善意の人がこの世の地獄も作り出しているのかもしれない。

きいちゃんが出戻ってきた老婆(彼女にとっては元義母でしかないのだが、老婆が勝手に娘だと主張している)を知らないと拒絶すれば、ゆめも母と娘の穏やかな暮らしを送れたはず。

小説の最後では、甲斐性のない、すぐに面倒から逃げ出す父親(離婚して別の家庭を持っている)は借金を抱えて老婆(本当は自分が面倒を見なければいけない母親)の生活費も払えなくなっている。

懸命に介護をしてきたきいちゃんも過労で寝込んでしまった。

このわがまま放題に暮らしてきた老婆をいったい誰が面倒を見るというのだろうか。

ゆめしかいないのではないか。20歳になったばかりで、やっと派遣社員から正社員になれた彼女のささやかな幸福はどうなってしまうのか。

この先この老婆が何年生きるか分からないが、百歳(現在90歳)ぐらい平気で突破しそうな勢い。

老婆にとって孫の悪態などなんてことない。談話の一種ぐらいとでも思っているのだろう。

何だかんだ言ってきいちゃんとゆめを手球に取ってうまく世話をさせているとしか思えない。

読めば読むほどゆめと一緒に老婆に悪態をつきたくなってくる。

ふつうの小説だと、この老婆が急にぽっくり逝って、最後は悲喜交交の大団円となるのだが、作者はそんな微温的な「小説的結末」を認めたくなかったのだろう。

(でも芥川賞は取れたかもしれないね)

Sunday, September 18

『くるまの娘』


子は親を選べず未完の親のもと子どもは未完の子となる連鎖


『くるまの娘』(宇佐見りん)を読んで。

正直、読んでいて辛くて途中で読むのをやめようと思った作品。

主人公のかんこは親から肉体的・精神的に暴力をふるわれている高校生。学校には保健室登校している。

兄と弟はそんな親に見切りをつけてすでに家を出ているが、かんこはかろうじて家にとどまっている。

かんこに暴力をふるう父親は、自分が受けた虐待体験を子どもたちに擬態語(ドカーン、ボコーン、エーンなど)でしか語れない。

しかし小説の最後で彼は自分の傷をかんこに語りながら「なんで生きてきちゃったんだろうな」とつぶやく。

運転席にいた父親が激情してアクセルを踏み込めば自分たちも近くにいる歩行者も危険だということをかんこは感じる。

しかし父親は一線を越えることはなかった。

「自己責任論」が覆い尽くす日本の社会。<生きるか・死ぬか>の最後の一線で踏みとどまっている人がたくさんいるにちがいない。

最近、ニュースになる「最強の人」たちもその一線で躊躇ったときに彼(女)らの言葉を聞いてくれる人(家族や友人など)がいればその人生も変わったかもしれない。

アベマテレビで、そういう最後の一線で迷う人たちの電話相談をしている女性がこんな話をしていた。

「女性の相談者は、自分のことを語っているうちに落ち着いてくる人が多いが、男性は<原因>が見つからないと怒りを収められない(人が多い)」と。

かんこの父親は、母親の死後に彼女がきょうだいの中で自分のアルバムだけ作っていなかったことを知ってショックを受ける。

彼は、母親のえこひいきにあらためて絶望するわけだが、それは誰からもいじめられたことがないと豪語する彼が誰にも見せたくなかった心の傷だったのだろう。

それを娘にきちんと言葉で語れたところに彼自身の歪んだ人生の「原因」を見つけたかもしれない。

そしてそれを引き出したのが、かんこの、<遠からず・近からず>の「くるま暮らし」だったのではないか。

「くるま」が家族の絆であり柵であったとするならば、かんこは最後までそこにとどまって、それをひとり守ろうとしたという読み方もできる。

こういった共依存関係はできるだけ早く清算して、それぞれが自分の行動に責任を持って自立した大人にならなくてはいけない、というのが世間の正解かもしれないが…

Friday, February 4

白梅


荒れ庭に残されていた一本の木に白いもの白梅らしい

荒れ庭の前を自転車で通ったときに枯れ木に白いものがちらっと見えた。通り過ぎて、ああ白梅だったのだと気づいた。愛でる人のいない梅の花。

Friday, November 5

きんでいの


きんでいのたけにぐさのはこのよならずりゆうしのえがくくさのみのせかい

金泥のタケニグサの葉この世ならず龍子の描く「草の実」の世界

『色で読み解く日本画』という本を読んだ。その中に川端龍子が描いた「草の実」があったが、金泥のタケニグサの葉がえも言われぬ凄さ。